ニュース日記 922 ソフトな独裁

 

30代フリーター マルクス・ガブリエルは日本を「ソフトな独裁国家」と呼ぶ(『世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているか』大野和基訳、2020年2月)。

年金生活者 そう名指された日本では、直後に新型コロナウイルスの感染が広がり、自粛警察やマスク警察が出現した。国家による直接の強制ではなく、自主規制の形をとった独裁が日常の中に姿をあらわした。

30代 彼が日本を「ソフトな独裁国家」と感じたのは、2013年に初めて日本を訪れ、地下鉄でそれと知らずに女性専用車両に乗ろうとして、白手袋の駅員に背中を引っ張られたときだった、と打ち明けている(「未来をここからプロジェクト」、2021年7月16日)。「ドラッグを使用する人すらいるベルリンの地下鉄と比較すると、日本では自由に対する多くの制約がある」と語る(同)。

年金 ドイツにはドイツなりの「自由に対する多くの制約がある」はずだ。「ソフトな独裁」は日本に限らず民主的と称される先進諸国を侵蝕し始めているからだ。米欧では移民の制限の強化を訴える大統領候補や右派政党が支持を広げ、日本では平和憲法に敵意をにじませる政権が続いている。バイデンはロシアや中国とのせめぎ合いを「民主主義と専制主義の戦い」と強調するが、専制主義は中ロのような非民主主義国だけでなく、民主主義国でもソフトな形で強まっている。

30代 冷戦が終わったときは自由が広がるように見えたのに。

年金 独裁への傾斜は自由の拡大からの揺り戻しとして始まった。ドイツで最も政治的な自由が拡大したワイマール体制の揺り戻しとしてナチスドイツが生まれたように。

 その国でどれだけ自由が保障されているかの指標のひとつとして、戦争からどれだけ遠いポジションにあるかを想定することができる。戦争の遂行には国民の自由を制限し、国家の意志に従わせることが必須となるからだ。これを指標にして各国を見ると、自由の縮小が今世紀に入ってからの共通した変化として見えてくる。

 オバマが「核なき世界」を唱え、現職の米大統領として初めて広島を訪問したあと、後任のトランプはロシアとの中距離核戦力(INF)全廃条約からも、イラン核合意からも離脱した。東西冷戦の終結後、西側との友好を目指したゴルバチョフ、エリツィンのあとには、軍事的な復興をはかるプーチンが登場し、ウクライナ侵略に行き着いた。

 「改革開放」の名のもとに西側諸国から外資を導入して資本主義化を進めた中国は、それに成功すると軍備の拡張に乗り出し、西側との対立を深めた。日本では、「緊密で対等な日米同盟関係」を掲げて軍事的な対米従属からの脱却を目指した旧民主党政権のあとに、大日本帝国をひそかに理想のモデルと考える安倍政権が登場した。

30代 何が揺り戻しの原動力になったのか。

年金 事は前世紀の後半から進んだ資本主義の高度化に端を発している。

 資本主義の高度化とは、より具体的に言うと、第2次産業を牽引車とした産業資本主義から、第3次産業を牽引車とするポスト産業資本主義への転換を指す。ポスト産業資本主義の特徴は、消費の過剰化、産業のソフト化、資本のグローバル化の3点だ。

 このうち消費の過剰化は個人消費に占める選択的消費の割合が必需的消費と肩を並べるまでに拡大したことによる。もし諸個人がこの選択的消費を一斉に控えれば、生活水準を落とすことなく景気を後退させ、時の政権を倒すことさえできるようになった、と吉本隆明は前世紀末に指摘した。それは国家の権力の一部が個人に分散し、個人の自由が増したことを意味する。

 自由の拡張はそれだけにとどまらない。国家の権力は企業にも分散した。ソフト化した産業は、国家の用意するインフラを第2次産業ほど必要としない。それだけ国家からの自立の度合が大きくなる。

 資本のグローバル化は、単一の国家による市場の制御を難しくした。国連やEU、G7といった国家間システムによってそれを補わざるを得なくなった。国家の権力は、国家間システムにも移り始めた。

30代 そのまま進んでいれば、今のようにはならなかった。

年金 足もとが危うくなった国家は、分散した権力の回収に乗り出した。その権力を手にした個人、企業、国家間システムもそれに呼応するような動きを始めた。自由を享受しながら、同時にそれに不安を覚え、犯罪の厳罰化などを求めるようになった。両者の思惑が重なったときナショナリズムが起動した。

 国家による権力の回収の作業は、犯罪やテロへの対策や防衛力の強化を理由に、個人や企業の自由を制限することを中心に進められた。企業に対しては経済安全保障の名のもとにこれまでなかった制約も加え始めた。国家間システムに対しては、英国のブレグジット、米国のパリ協定脱退などにみられるように、そこから離脱するか距離を置く国家が出現した。

30代 世界はこのままソフトな独裁への傾斜が続くのか。

年金 この状況が自由の拡大からの揺り戻しの結果だとしたら、その逆もあり得る。歴史はジグザグにしか進まない。