座付の雑記 34 ご隠居さん

 古典落語の舞台は、明治か江戸時代が多い。言わば時代劇である。こども落語では緻密な演出が求められるような演目は避けるので、時代考証はほとんど無視している。小道具大道具を使わないのをいいことに、しゃべっているこどもたちがどんなイメージを浮かべているのかにはあまり注意を払わない。昔の外国映画に出てくる日本のように、制作者の知っている知識が断片的に配置された、知っている者からすれば少々気色の悪いイメージが描かれているのかもしれない。

 噺を覚えたら仕方(しかた)と呼ばれる動きをつけていくのだが、ぼくには落語の型の素養も知識もないし、こども落語には不要だと思っているので、こどもたちには想像したとおりに動けばいいと言っている。言葉に即しているのだから、さほど出鱈目になることはなく、こどもたちが考えてきた動きを客席からわかりやすいように修正すれば、まず違和感はない。

 言葉と動きがちぐはぐなときは、こどもの中に像が結ばれていないのだとわかる。読み込みが足りないのが原因なら、次は理解しているかもしれないからほうっておく。知識が足りない場合は補う。どうも妙だぞと思って話しているうちに草鞋がどんなものか知らなかったという事実に行き着いたこともある。

 ある教室生が、噺は全部覚えて所作も事細かくつけているのにどうもやりにくそうにしていた。ところどころ集中を欠き、どこかイライラしているように見えるのだ。ぼくにはさっぱり理由がわからず、どう言葉をかけたものか困ってしまった。一度きりならともかく毎回同じ調子だと、うまく対処できていないこちら側の問題である。

 これも話を聞いているうちに原因がわかった。この子はご隠居さんがイメージできなかったのである。話の流れから人物像や役割については理解しているのだが、隠居という存在がピンと来ないのだ。それに思い至ったとき、現代生活で「ご隠居さん」はもう存在しないのだという事実にハッとした。家督を次世代に譲って人生双六のゴールに達し、何をするでもなく、若い者が知恵を借りに来れば相談に乗ってやる。それも真面目だったり不真面目だったり。浮世の世知辛さを脱した人物をどう説明したものか。難問である。