座付の雑記 30 公民館まわり
地上波のテレビを見ることは、『ばけばけ』を除いてほとんどない。それなのに新聞の番組批評は読む。まだどこかでテレビが気になるのだ。1月24日付朝日新聞の批評コラムで社会学者が「マツコの知らない世界 新春SP」を取り上げていた。当番組でマツコは坂東玉三郎と対談をした。よほど内容がよかったらしく、他にも同じ番組に言及したコラムをどこかで読んだ。
番組を見ていないので孫引きなのだが、スマホに流される現状を踏まえた上でテレビについて問われ、マツコは「できれば少人数の客の前で好きな話をする公民館まわりをしてみたい」と玉三郎に語っている。あれほどテレビに出ている人が、それだからこそかもしれないが、テレビに限界を感じていると言う。もう一つのコラムもこの発言を紹介していたことを考えると、少なからぬ人の琴線に響いたのではないか。ぼくもその一人。
ほとんどの週末、どこかに出かけてこども寄席をしているが、落語は一人芸なので、その日のその子とお客さんの調子次第で雰囲気はずいぶんと異なる。ガックリと何日も引きずるようなものから、神回だと興奮するものまで、その差は実に大きい。
もちろん全部とは言えないが、神回だ、と心の中で快哉を叫びたくなるような落語会になるのは、公民館や地区集会所の場合が多い。早くから来られるわりには後ろの席から埋まるのだけど、子どもたちがやりやすいからと言って促すと、目配せしてごっそり前に移ってくれる。きっかけがほしかったと言わんばかりに。そんな調子で開演前から会場が温まっていて、開口一番に幼児が静静と出て行って、高座に梯子でも上るみたいに上がっていく段階でもう「かわいい、かわいい」と発火する。そうなると、子どもたちが繰り出すくすぐりやオチはことごとく決まって、次々と爆笑を誘発していくのだ。子どもたちもうれしくてますます勢いづく。終演後もみんなが余韻に浸り、手を取り合って互いに「ありがとう」を伝え合っている。
こんな会は、寄せ植えではなく、土も苗もごっそりと移植したような場でないとなかなかお目にかかれない。お互いの来歴や暮らしぶりをよく知っていて、警戒心など微塵もない、ともに地域を作っているあのさんこのさんの集まりである。そんな30人40人を前にして、好きな話をしゃべってともに楽しむ。今では贅沢とも言えるこんな場を、子どもたちには決して贅沢などと思わずに、空気のように感じておいてもらいたい。マツコが渇望しているようなテレビの先をそれとは知らずにたっぷり味わっておいてほしいと願う。
