ニュース日記 997 政党政治からカリスマ政治へ

30代フリーター 高市政権の高い支持率にもかかわらず、自民党の支持率は伸びていない。

年金生活者 政党政治からカリスマ政治への転換を示す兆候に見える。戦前の日本にも同様の転換があった。政党政治が行き詰まり、若い貴族の近衛文麿が国民の人気を集めた。背景には世界恐慌があった。それに対応できない政党に国民の不信が集中した。

 経済危機とは、分け合うパイが縮小することだ。第1次世界大戦後の日本は本土が無傷だったため、輸出が急増し、空前の好景気を迎えた。それで膨らんだパイをどう分け合うかをめぐって、対立しながら調整をはかったのが当時の2大政党の政友会と民政党だった。だが、世界を襲った恐慌でパイが一気に縮小したため、その分け前の争奪と調整を担う役割を奪われ、弱体化していった。

 今の日本は、インフレの進行と実質賃金の低下で国民の分け合うパイは縮小し続けている。それを止め、拡大に転換させる構想と政策をどの政党も持ち合わせていない。それが政党への不信を呼び起こし、戦後の基軸政党であり続けた自民党を少数与党に転落させた。

30代 そこに登場したのが高市早苗だ。

年金 「初の女性首相」は彼女にカリスマ性を帯びさせた。高市の掲げる「責任ある積極財政」はインフレを加速する政策であるにもかかわらず、国民の期待を集めた。カリスマの輝きが生んだ錯覚だ。近衛は国民の人気を集めたにもかかわらず、パイを増やすどころか、日本を長い戦争へと導いた。高市にそこまでの危険は感じられないが、危うさの構造は近衛と同様だ。

 近衛も高市もナショナリズムが高まる中で政権のトップに就いた。ナショナリズムの高まりは国家の宗教的側面が前景化することを意味し、カリスマ政治家はその司祭の役割を担う。

30代 国家の宗教的側面とは?

年金 近代国家を構成する「ネーション」と「ステート」のうち、「ネーション」を指す。「ステート」が主権を有する統治機構を指すのに対し、「ネーション」は共通の言語、文化、歴史を有する共同体を指す。ベネディクト・アンダーソンにならって「ネーション」を「想像の共同体」と呼べば、「ステート」は「現実の共同体」と言うことができる。

 「想像の共同体」は、マルクスの考察に従えば、国家が国教のつっかえ棒を棄て、おのれ自身が宗教になったときに完成した。それは市民社会で孤立して生活する人間を想像の中で共同的な存在にする役割を担う。

 他方、「現実の共同体」の主要な役割のひとつは富の再分配にある。市民社会は放っておけば富の偏在が避けられない。持てる者から持たざる者への富の移転を国家は求められる。だが、その富が縮小すれば、再分配も縮小し、国家の根幹の機能は低下する。

 そうした「現実の共同体」の不具合を補うために、「想像の共同体」が膨張し始める。縮小する「現実のパイ」に代わって、「幻想のパイ」を膨らませる。それがナショナリズムの高まりとなってあらわれる。

 政党政治が機能しているときは、政治家にはカリスマ性よりも実務能力が求められる。この場合の実務能力とは、自らが代表する階級、階層のパイの分け前を少しでも増やすことのできる力だ。それはパイが少なすぎては発揮できない。それが続けば信用を失う。

30代 そのときカリスマ政治家が彼らに取って代わる。

年金 カリスマ政治家は、パイをめぐる国内の対立を国外との対立に転化する。パイの縮小の原因を国外に求め、排外主義を流布させる。軍備の増強を当然視する世論を形成していく。前景化してきた国家の宗教的側面をつかさどる聖職者となったカリスマ政治家にとって、実務能力はかえって邪魔になる。高市の「台湾有事」発言は、外交上の実務能力の低さをあらわにした。

30代 政党政治からカリスマ政治への転換の典型はトランプ政権の誕生だ。

年金 民主制という同じ俵の上で政権交代を繰り返す根幹のシステムが棄損し始めている。トランプが2020年の大統領選で落選したとき、支持者が選挙結果を認めず、連邦議事堂になだれ込んだ事件でそれがあらわになった。

 土俵の同一性、ルールの共有が失われれば、「対立」は消滅し、代わって「分断」が進む。「対立」している間は討議が可能であり、「対立」こそ討議が成り立つ条件でもある。「分断」が深まれば討議は難しくなる。強権の行使が次第にそれに取って代わるようになる。トランプは政敵の訴追、恩赦の乱用、学生・研究者への圧力などを平然と実行している。それができるのも彼がカリスマ性を持っているからだ。

 アメリカに代わって、新たな覇権国家を目指す中国の習近平も、カリスマ政治への転換という世界の流れに乗って、カリスマ的な指導者を目指す。ただし、彼にはそうした指導者に見られる神がかったところが少しもなく、カリスマ的な資質は皆無に近いと言っていい。だが、現在の世界に最も適応できるのはカリスマ的な指導者だと認識しているはずだ。毛沢東の権威をバックに、強権を振るって力を誇示し、人為的に自らをカリスマ指導者に仕立てる演出を続けている。