ニュース日記 710 民主制の未来

30代フリーター やあ、ジイさん。安倍政権は自分たちに歯向かう者を過剰に恐れ、その行動を封じるモグラたたきを繰り返している。「あいちトリエンナーレ2019」に補助金7800万円を出す予定だったのを取りやめたのもそうだ。

年金生活者 この場合のモグラは主催者である愛知県知事の大村秀章だろうな。彼が政権に歯向かっていると認定された理由を推定してみる。日本政府は在韓日本大使館の前に設置された慰安婦像(少女像)の撤去を韓国政府に要求しているのに、大村はトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」に同様の少女像を展示することを容認した。その少女像に脅迫や抗議が殺到して「表現の不自由展」を中止したのに、懲りずに再会することを決めた。おもなのはこのふたつだろう。政権はそんなことはおくびにも出さないが。

30代 政府は補助金の不交付の理由として、展示内容ではなく「会場の運営を危うくする事態が予想できたのに申告しなかった『手続きの不備』」(9月27日朝日新聞朝刊)をあげている。

年金 仮にそれを認めるとしても、「不自由展」関連分ではなく、トリエンナーレ全体の補助金7800万円全額を出さないことにしたのは過剰な措置というほかない。政権に歯向かった大村にペナルティーを科し、その行動に縛りをかけようという意図があり、またそれを感じさせるのが狙いでもあると推察される。
 過去の自民党政権なら、ここまで露骨なことはしなかっただろう。安倍政権はそれだけ余裕を失っている。余裕を失わせているのは、手にした権力の軽さだ。昔はもっと重く強力だったはずなのになぜ今は、と彼らは感じているに違いない。
 その背景には何度も言っている国家から個人への権力の分散がある。前世紀の終わりに近いころ、吉本隆明は家計の中で選択的消費が必需的消費を上回ったことをとらえ、民衆は選択的消費を一斉に控えることで、どんな政権でも倒すことのできる力を手にした、と指摘した。
 安倍晋三は第1次政権を投げ出し、やがて民主党に政権を奪われ、さらにその政権の崩壊を目の当たりにして、そうした時代の変化を身に染みて感じたはずだ。いつ民衆に倒されるかわからないという脅えが自らの反対者を脅えさせようとする行動に向かわせる。

30代 そんな政権が底堅い支持率を維持しているのは何度考えてもよくわからない。

年金 目覚ましい経済発展とは裏腹に前近代的な独裁を強化している中国の習近平政権とあわせて考えると、今の民主制が現在と未来に適合しにくくなっているのではないかと思えてくる。国民は民主主義に以前ほど価値を認めなくなっているのではないか。
 戦後の日本では民主主義が平和と並んで輝かしい価値として扱われた時期があった。貧困がありふれたこととみなされた時代だ。生活上の自由が現在よりはるかに制限され、貧富の格差は程度の差にとどまらず、飢えるかどうかの絶対的な差として存在した。現実の社会の不自由と不平等が改められないのなら、せめて政治の世界においてだけでも自由と平等が享受できることを国民は求めた。自分たちの代表者を選ぶ自由、その権利を皆が等しく行使できる平等だ。
 高度経済成長期を経て家計の選択的消費が必需的消費を上回った現在、社会における不自由と不平等は当時よりはるかに縮まった。そのぶん「せめて政治の世界においてだけでも」という切実さは後退した。安倍政権が民主制をあなどるような振る舞いをしても、国民の多数が支持を撤回するところまでいかない理由のひとつがそこにあると考えられる。

30代 それがエスカレートすると、民主主義の存在理由が問われる。

年金 現在の代表民主制に代わるシステムを構想する試みがなされるようになった。東浩紀は「熟議もなければ選挙もない、政局も談合もない、そもそも有権者たちが不必要なコミュニケーションを行わない、非人格的な、欲望の集約だけが粛々と行われる『もうひとつの民主主義』」が情報ネットワーク技術によって可能になると語っている(『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』)。
 選挙がないから、国民の代表はいないし、それで構成される議会もない。個人個人の欲望を満たす日々の行動がSNSなどのネットワークを通して集約され、社会の意志が決定される。国民投票が家や職場や遊び場や街路や乗り物の中で常時なされているようなものだ。
 これを究極の直接民主制と呼ぶこともできる。ただし、私たちが理解する直接民主制が国家の存在を前提にしているのに対し、東の言うこの「もうひとつの民主主義」は近代国家の根幹をなす議会を欠いており、その点で国家への依存度が現在よりはるかに少ない。
 レーニンは今から1世紀ほど前、来たるべき社会主義のもとでは住民大衆が「日常の行政にも、自主的に参加」し、「すべての人が順番に統治するであろう」と書いた(『国家と革命』宇高基輔訳)。彼の言葉にある「自主的」を「自動的」に、「順番に」を「同時に」に置き換えれば、東の描く「もうひとつの民主主義」に近づく。