がらがら橋日記 東京公演
古今亭志ん朝が噺のマクラで、新幹線の車窓からまったく家が見えなくなる瞬間がないのを嘆いていたのを思い出した。
「ああっ、また家だ。ってね」
ぼくはそんなことを思う志ん朝師の感覚が不思議だったのだが、それは人跡まばらな地を身近に感じる田舎人ゆえなんだろう。20年ぶりに行った東京は、隙間なく建物が並んでいて、わかってはいてもびっくりする。ビルや家しか見えないところに暮らしていれば、せめて車窓からなりとも、それが一切見えないところを見たい、と思うのだろうか。
今回は、高尾小の「にこにこ寄席」悲願の東京公演が実現し、それに同行したのであるが、ぼくは公演前日の学会発表のために子どもたちとは別行動だった。学会の発表といっても、学問的な組み立てについては、プロデューサーともいえるMさんの構想に拠っており、ぼくはK教諭とともにべらべらしゃべる資料といった役割である。
悲願の、としたけれども、言うなればでっちあげの悲願ではある。落語を始めた初年から、幸いなことにたくさんの方が協力を申し出てくれて、町外からも公演要請が届いたのだが、子どもたちはそれがうれしくて、
「北海道に行ってみたい」だの「ぼくは広島行ってカープの試合が見たい」だの、要するに「どっか連れてって」という子どものおねだりと同レベルの夢想を口にしていた。
ある子がマクラでその夢を語ることを思いついた。相談して、「どうせなら、東京、その先にニューヨークというふうにしよう」ということになった。
「ぼくたちの「にこにこ寄席」もいろんなところからオファーが入るようになって、これまで○○市や△△町でやってきました。こうなったら目標は東京です。」
「でも、本当の目標はニューヨークです。」
これは、どこでも言う度にどっと受けて、拍手が湧く。もっとも、エンターテイメントの頂上を目指すとか、世界展開とかの含意をその子が理解しているはずもなく、単に大都会の代名詞を並べたに過ぎないのであるが、語っているうちにお客さんたちは、彼が純粋に夢見ていると思うに至るのである。
東京公演が決まった時、夢をあきらめずに語り続けた彼の功績である、というムードができ、すでに卒業していた彼を連れて行かぬわけにはいかないとだれもでひっぱりこんだのだが、当人は東京公演のマクラで語る。
「いやあ、冗談だったんですけどねえ。まさか本当になるとは。何でも言ってみるもんです。」
これもどっと受けた。
「にこにこ寄席」東京公演会場は、新宿から京王線に乗って四つ目の駅で降り、商店街を道なりに進んで十分余り、日本大学文理学部の7号棟エントランスである。学生が各教室に至るための玄関口で、広くはあるが動かせぬ机あり、巨大な円柱の柱が中央に並んであり、と条件は決して良くない。
ただ、寄席の設えではないところを無理やりそれらしくするというのは、「にこにこ寄席」の常であり、校務技師お手製の定式幕を張り、高尾かかりの会社から寄贈してもらった幟を並べ、ピアノカバーの裏地を使ってビールケースを覆えばりっぱな寄席が出来上がった。ちなみにビールケースは高尾にただ一軒の商店から借りたものである。東京の酒屋にももちろんあって事務局があたってくれたのだが、今どきは貸してくれないらしい。
何だかんだでバンにいっぱいの荷物になったのをK教諭は、奥出雲から会場まで運転して運び込んだ。
聞けば、東京の大学の落研は、会場設営に用いる大小の道具をレンタルショップで手配するのだという。そんなものがレンタルで用意できるというのもさすがは東京、と驚いたが、決して安くはなかろうに、何をするのでも金のかかるところである。
日本大学文理学部は、今年騒動になったアメフト部のあるところで、寄席会場の目と鼻の先に件のグラウンドがある。だれかが何か言うだろうと思っていたら、案の定5年生がマクラで使った。
「悪質タックルに負けずにがんばります。」
もっともこれは出発前まで。当日本番前の練習で、「どうする?」と聞くと、
「そんなあ、やりませんよ。さすがに」
と当人は笑っていた。本番、
「見事なタッチダウンを決めたいと思います。」
と、変えていた。ここで大きな拍手を浴びていたものの、たぶん、ほんとうに言いたいこと、というかほんとうに言っていたこと、は会場のお客さんにはお見通しだったことだろう。
京王線下高井戸駅から日本大学文理学部までの間を学会、「にこにこ寄席」で二日間何度か往復した。いくらか道を変えながら歩いてみる。車が邪魔になりそうな狭い道ばかり縦横に走り、うっかりしていると迷いそうになる。どこも住宅と商店が混在していてた。
松江ではとうの昔に姿を消した八百屋や魚屋、よく見ないとわからないような衣料店などがあった。切り取った段ボールにマジックで値段を書いて籠に挿してあったりして、子どものころお使いに走った近所の店を思い出した。スーパーマーケットに駆逐されるまでの短命な八百屋だったが、ぼくが行くと、元気なおばあさんがよくバナナなどお使いのご褒美に付けてくれた。手柄を得意になって渡すと、母はすっかり変色しているそれを見て、「ケチだねえ。」と言った。
ぼくが中学校に通うようになったころはすでに、近所の商店も有名な商店街も活気などほど遠い状態だったが、下高井戸はそこここから店主と客の話し声が聞こえてきて、なんだか懐かしい気がした。ここだって昔と今ではずいぶん変わってしまっているんだろうが、それでも人の行き来が絶えないし、無人の店でもさっきまで人がいた名残が感じられた。口の重いほうのぼくでも、店主とおしゃべりしてみようかという気になった。
前夜は、六本木ヒルズを案内してもらった。中庭(と言っていいんだかわからないが)でロールスロイスが何台も展示されていて、スーツやドレスで着飾った人たちが、ワインを手ににこやかに話している。白人の美女がミキサーのつまみを細かく動かしながら体をくねらせていた。ぼくのような田舎者がイメージする東京そのものだが、超高級車を囲む金満家たちの周りにはバリアでもあるみたいで、彼らと視線が通うことはない。
ここで「にこにこ寄席」、なんて空想してみる。たぶん、高尾の子どもたちの向こうにある、山や川や稲刈りを待つ田んぼなんかセレブたちには見えないだろうなあ、と思う。商店街のおじさんおばさんたちが来るわけではないのだが、下高井戸でよかった。
島根の山間地、全校9名の学校の子どもたちが、大都会東京で落語を披露した。快哉を叫びたくなるような話である。炎天下の棚田の中を這いずり回るように草取りしている年寄りたちが「誇りだ」と、笑顔で送り出してくれた。
10月19日(土)午後4時から、高尾小学校を会場に、「凱旋公演」をする。子どもたちの目に映った東京がどんなマクラになるか、楽しみだ。