ニュース日記 714 身体と気象

30代フリーター やあ、ジイさん。「頭がよくなる筋トレ法」というキャッチコピーを本の新聞広告で見かけた。現代人が気にかけていることをセットにして示したようなコピーだ。

年金生活者 頭の良し悪しが気になるのは、養老孟司のいう社会の「脳化」が、インターネットの普及で飛躍的に進んだからだ。脳化とは観念化であり、今の私たちの社会は手でさわれるモノよりもさわれない観念によって大部分が占められている。それは肉体の重労働を減らした代わりに、脳に重労働を強いている。
 人びとが頭の良さを望むのは、その労働に耐えるためばかりでない。消費もまた脳化が進み、頭の駆使を強いられるようになった。ゲームや映画、ドラマ、スポーツなどはその代表といっていい。
 脳化、観念化は抽象化、普遍化でもある。それはひとりひとりの個別性を消し去る。自分はどこにいるのか、そもそも自分はいるのかいないのか、といった問いから私たちは逃れられなくなる。

30代 その答えは?

年金 脳化、観念化した領域には見出せず、身体に求めるほかない。身体はひとりひとりのそれが物理的に分離されており、個別性が明瞭だ。だが、あるがままの身体はどこか頼りない。社会の大部分が脳化、観念化した領域、手ではさわれない領域によって占められ、手でさわれるモノの領域、身体もそれに含まれる自然の領域はそれに圧倒されているからだ。
 それを少しでもはね返すには身体をできるだけ手ごたえのあるものにする必要がある。それには筋トレや有酸素運動やダイエットをして鍛えるのが手っ取り早い。健康への希求は生理的なレベルのそれにとどまらず、観念的なレベルに及んでいるということができる。

30代 そういえば、さっき話した本の広告には「二度と体調を崩さず、メンタルも強くなる心理学」というコピーもあった。年金 私も軽い筋トレを長年の日課にしている。健康のためばかりでなく、体を少しでも見栄えよくするためだ。カントは美を「普遍的に〔すべての人に〕快いところもの」と定義した(『判断力批判』篠田英雄訳)。それと同じ意味で筋トレは私を「普遍的」な存在に近づけてくれる。
 このナルシシズムは他方で、自分という存在を体感させてもくれる。自分を手ごたえのある何者かにしてくれる。他と取り替えられない個別性を実感させてくれる。
 筋トレはだから、身体の普遍性と個別性の両方を目指す動作にほかならない。胎児の身体にはその両方がある。母胎という宇宙とへその緒でつながった胎児は自身が宇宙的な存在、すなわちユニバーサル=普遍的な存在であると同時に、母とは異なる身体を備えている点で個別的な存在でもある。筋トレにはそうした胎児の世界への帰還の願望を代わって充足してくれる一面がある。

30代 俺たちはふだん筋肉を筋肉以外のものを動かすのに使う。筋肉を筋肉そのものを動かすのに使う筋トレは考えようによっては妙な動作だ。

年金 人間の活動は「全自然を彼の非有機的肉体とする」というマルクスの考え(『経済学・哲学草稿』城塚登ほか訳)に従うなら、筋トレは「全自然」の一部であるおのれの筋肉を自分の「非有機的肉体」とすることを意味する。それは自分の筋肉をあたかも自分以外の自然のように扱うことでもある。
 吉本隆明は「全自然」を「非有機的肉体」とすることを「自然の人間化」ととらえ、それは必ず人間の自然化という反作用をともなうと考えた(『カール・マルクス』)。これを筋トレにあてはめるなら、筋肉は人間化されると同時に自然化されることになる。
 人間化の結果を代表するのが見栄えのいい体形であり、自然化の結果は筋力の増強に代表される。見栄えのいい体形は人間がそれを目標として思い描き、おのれの筋肉に働きかけた結果であり、その意味で筋肉という自然の人間化にほかならない。同時に筋肉は増強され、自然としての力を増したという意味で、人間の自然化と呼ぶことができる。

30代 人間は自然を人間化するために、機械を発明した。筋トレも機械化できないだろうか。筋肉を痛めつけ、息を荒げ、汗を流さなくても、自動的に筋肉が増強される装置ができたら楽になる。

年金 スポーツジムに並ぶトレーニングの器具はマシンと名づけられていても機械ではなく、手工業にたとえるなら、人力を補助する道具であり、機械工業のように自動化されていない。
 筋トレの機械化、自動化は可能か。筋肉を土地にたとえるなら、農業の機械化はそれを考えるヒントになるかもしれない。土地を耕すのは、鍬を使っても、トラクターを使っても、土を掘り返す点では大差がない。筋トレもそれと同様に、手動で筋肉を動かしても、機械にまかせても、筋肉を痛めつけ、疲れさせる点では大差がないに違いない。
 人間化すればするほど自然化する筋肉は、私たちの環境の非自然化、脱自然化がどれだけ進んでも、身体だけは自然の状態を執拗に保ち続けるだろうということを予感させる。自然はこれから先、マクロでは気象を通して、ミクロでは身体を通してその姿をあらわにするだろう。