座付き雑記 3

ネットから遮断されてみると、すわ、おおごと、とあわててしまったが、代替の方法もないではなく、どうにか日々が過ぎていっている。ただ、その代替というのには制限があって、不用意に使うと困ったことになるらしい。今のところ、らしいと、極めてあいまいにしか理解できていない。「○ギガまで」と念を押すように説明されたが、そんな数字で何ができて何ができないかわかるはずがなく、ちんぷんかんぷんだ。とりあえず、動画を見るとたくさん容量を使うらしいから気をつけろというのはわかった。こんなことになる前から、動画なんぞたいして見ていないから、それだけだったら痛くも痒くもない。それでも分からぬというは不安なもので、音楽配信にも、NHKプラスにも手を出さず、音楽はラジオを聞き、テレビはまったく見ないという生活になった。しばらくは、それをとても不便なことと感じていたが、一週間もそうしていると慣れてきた。不便というのは単なる思い込みで、新聞を読んでラジオを聞いていたらテレビやネット記事なんぞなくて平気だということがよくわかった。もう少しでネットなんぞなくてもとうそぶけそうなのだが、どうにもならないのがメールやSNSの類いだ。

 木幡さんも書いていたが、この通信を始めた30年あまり前、原稿のやりとりは郵送か直接だった。その手書きやワープロ原稿をまた一字一字タイプして入力したのだった。だからタイプミスの誤植が気をつけていてもなくならず、締め切りに追われてあわてて発行したときなど、目を覆いたくなる惨状だった。しかし、当時はまだ公文書にも手書きが混じるような時代だったので、誤字脱字にもわりとみんな寛容で、頭の中で校正して文意を察していたし、そうしてもらっていた。だから岩波文庫のようにいくら読んでも誤植の見つからないような書籍は、それだけでとてつもなく尊く思えたのだった。

 ちょうど通信を始めるのと同時期にパソコン通信が一般にも広がりだして、あれよあれよという間にメールが通信手段の主流となった。コピペという言葉が出てきたかと思ったら、最初に帯びていた批判的な含みなんぞ瞬く間に消えていった。

 気がつけば、メールさえ旧式に属すようで、塾の保護者たちとの連絡はもっぱらLINEだ。聞けば、学校への欠席連絡も電話ではなくアプリでひょいと送るのが主流なんだとか。

 二月もすればネット開設工事がある。つながらなかった間、何を考えたかきっとすぐに忘れる。さして不便じゃなかったことを記憶しておきたいのだが。