老い老いに 30
さまざまな催しの案内が夕焼け通信に載るようになった。最初の講演案内がなされ、記録が掲載されたのは、1995年10月に隠岐で開催された尹健次氏の講演だ。演題は『戦後五〇年❘日本人と日本社会』。尹氏が書かれた岩波ジュニア新書『きみたちと朝鮮』は我が家の本棚に並ぶ一冊で、奥様の尹嘉子さんの挿絵が彩を添えている。
次が伊藤ルイ氏で、1996年4月、『共に生きる喜びを』と題して講演録が載った。残念なことに、講演で隠岐の島を訪れた2ヶ月後にルイさんは病に倒れ逝去される。ルイさんと縁ができた夕焼け通信には追悼文が寄せられた。
1997年には岡部伊都子氏の講演が10月に開催され、『刻々を美しく』の演題で講演録が連載されている。婚約者を沖縄戦で亡くされ、自らをも加害者として綴り、さまざまな随筆を書かれた方だ。
そして、年が明けた1998年1月に、『加害者としての私の戦争体験❘日本は中国で何をしてきたか❘』の講演が開かれ、鹿田正夫証言禄として連載された。
編集長の赴任先の隠岐でさまざまな講演が催されてきたが、最後となったのが1998年3月『家族の過去・現在・未来❘介護関係をめぐって❘』だ。家族社会学者である春日キスヨ氏のお話で、5月から講演録が掲載された。
編集長が奥出雲へ、Y氏が広瀬に行ってからも、講演は次々と催され、講演録が夕焼け通信に載せられた。1998年7月に広瀬で行われたのが徳永進氏によるもので、『ぼくが見たいのち』として掲載される。その年の10月に奥出雲町横田で開かれたのが、新聞社勤務後様々な活動をされている吉田健作氏による講演、『「歩いて聞いて考えた」部落問題』。
演題から想像がつくだろう。多方面にわたる内容の講演が行われ、講演録が夕焼け通信に載った。どの講演にも行けなかったが、文章を読むだけで講演を聴いた気分になれた。多忙な中テープを起こして文字にしてくださった編集長。私も一時期,視覚障がい者の就労支援をしていて、テープ起こしのチェックを日々行っていたので、時間と根気を要するその作業の大変さはよく分かる。そんな苦労もいとわずに、読者に広く伝えたいとの思いから、大仕事を続けた編集長には敬服する。