老い老いに 26

 「加害者としての私の戦争体験❘日本は中国で何をしてきたか❘」の講演録、Y氏の「放浪の記」が続く中、新たな連載も始まった。ご自身の看護師としての体験を書かれたものだ。その他、ずっと詩を書き続けている方、地元で文筆活動を続けている方など、単発ではあるが寄稿下さり、何とか五年目も無事終えることができた。

 その5年目の終わり、夕焼け通信社は移転となる。編集長の転勤で、隠岐から奥出雲に移ることになったのだ。隠岐は支局となり、様々な活動を編集長と共にしてきた方に託されることになった。編集後記の一部を掲載する。「隠岐の社屋を引き払ったのが4月1日。そして、この奥出雲の地にやってきたのが4月2日。前日から急に冷え込んだそうで山々の頂はうっすらと白くなっていました。右も左もわからぬ土地、そしてあまりの寒さと人気のない新社屋、行き当たりばったりを旨とする編集人一家も心細さに胸ふさがる思いでしたが、今はずいぶん落ち着きました」。島根県の中では海に囲まれていて割と穏やかな気候の隠岐から、盆地で寒暖の差が激しい山の中の奥出雲への移転。編集人が自分の思いで行動するのはいいが、それに付き合わされるご家族は大変だったことだろうと察する。

 しかし、今回の奥出雲だけでなく、隠岐も全く新たな土地だった筈。そこでたくさんの人と出会い、たくさんの人を呼び込んで講演会を開いている。亡き伊藤ルイさんにまで足を運んでいただき、いくつかの講演録が夕焼け通信を賑わせ、多くの読者の共感を呼んだ。編集長の先輩であるY氏は勤務先の施設で劇団を立ち上げ、本土公演まで行った。さらに島後地区の障がい者に関わる五者共同の「みんなでつくる発表会」でワークショップを開いた。同人としての私も、お二人の行動力に引きずられるように、二度も隠岐の島に渡っている。(一度はひまわり号に乗って渡り、もう一度はワークショップに招かれた田島征三さんの講演を聴きに)

 山奥の人気のない奥出雲の地に移っても、編集長ならそこでまた新たな人たちと出会い、様々な活動をしていくことだろうと移動の際には感じていた。ただ、昨年92歳で亡くなられた谷川俊太郎さんをお招きすることになるとは思いもしなかった。