ニュース日記 957 フェイク情報がなぜ流通するのか

30代フリーター フェイク情報が本物の情報と同等に流通し、選挙を左右するまでになった。インターネットでだれでも情報を発信できるようになった、ネット上で広告収入を稼ぐためのセンセーショナルな記事が増えた、SNSは事実よりも「信じたい情報」が広がりやすい仕組みになっている、といった理由があげられている。

年金生活者 これまで言葉と物(事実)は対応しているのが当然と思われてきた。それが当然ではなくなったことがそれらの背景にある。

 ミシェル・フーコーは『言葉と物』で、一体をなしていた言葉と物が離れていくさまを、西欧のエピステーメー(認識の枠組み)が転換していく歴史として描いた。それは3段階に分けられる。

 中世・ルネサンス期(16世紀末まで)のエピステーメーでは、すべての物が記号とみなされ、言葉と区別されず、それらすべてが「類似」によって結びつけられていた。

 その後に来る近世(17~18世紀)のエピステーメーでは、言葉と物が区別され、物は言葉によって表現されるものとして扱われるようになった。物を結びつけるのは「類似」から「比較」にかわった。

 そして近代(19世紀以降)のエピステーメーでは、言葉と物との一対一対応の関係の間に主体としての「人間」が介在するようになる。言葉と物の間の関係が「人間」の欲望に左右されるようになり、両者の分離がさらに進む。

 その「人間」もやがて終焉が近いと当時のフーコーは予言した。言葉と物を結びつけるものがもはやなくなるということだ。おそらく現在は言葉と物はその半分以上が無関係に近いところまで離れているのではないか。ラカンが「シニフィアンはシニフィエと何の関係ももたない」(『アンコール』)と言ったように、言葉は物から離れて浮遊し、人びとを捕らえる。フェイク情報が流通する市場ができた。

30代 そういったエピステーメーの転換はなぜ起きた。

年金 資本主義の興隆と高度化がそれを引き起こしたと考えるのが私にはいちばん納得しやすい。

 中世においては、言葉も物も「類似」によってしか関係づけられなかった。鉄と小麦のような、あるいは上着とコーヒーのような、まるで「類似」していない物どうしが広範囲にわたって大規模に交換される資本主義が未成立ないし未熟だったからだと考えることができる。

 近世になると、商業資本主義の誕生によってそれが一変する。遠隔地貿易によって、東南アジアの香辛料、中国の茶、アメリカの砂糖や銀、アフリカの奴隷、ヨーロッパの銃や毛織物など「類似」しない物が広範囲にわたって大量に交換されるようになった。似ても似つかない使い道の商品に同じ値段がつけられ、取引された。言い換えれば使い道と値段が分離された。それが言葉と物の分離を促した。言葉は商品を表す値段のように物を表現するものとなった。

 近代になって、産業資本主義が発達すると、商品はアジアとかアフリカとかどこかの地域にあらかじめ存在するものではなくなり、人間の労働によって生み出されるものとなった。前の時代には、商品の価値はそれが遠く離れたところにしかないという商品の属性によって決まった。近代においてはそれが労働というありふれた行為の量によって決まるようになった。商品の属性すなわち使用価値と交換価値の分離が明確になった。

商品を物に、価値を言葉に対応させて言えば、物の属性に依存していた言葉が、人間の意思や行為に依存するようになった。それが物と言葉のさらなる分離を促した。

30代 それでもフーコーが『言葉と物』を出したとき(1966年)は、今ほどフェイク情報ははびこっていなかっただろう。

年金 フーコーがこの著書の結びで「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」(渡辺一民・佐々木明訳)と予言した「人間」とは「労働力としての人間」を指しているというのが私の理解だ。

 フーコーが『言葉と物』を書いたあと、産業資本主義は終わり、ポスト産業資本主義(消費資本主義)の時代を迎える。産業の牽引車は物を生産する第2次産業から物をつくらない第3次産業にかわった。利潤の主要な源泉は労働力からイノベーションに移った。労働力の担い手としての「人間」は資本主義という舞台の主役の座を降りた。フーコーが「その終焉は間近い」(『言葉と物』)と予言したとおりになった。

 産業資本主義の時代の労働は既知の物を対象に既知の手順に従ってやればよかった。ポスト産業資本主義の時代のイノベーションは既知を否定し、未知の何かを求めて未知の手順をさぐりながら進めるしかない。そのための唯一と言っていいツールが言葉だ。まさか!うそだろ!そんな馬鹿な!と否定されそうな言葉を連ねながら未知のアイデアを追う。

 そこでは言葉が事実を表しているかどうかは主要な問題とはならない。事実を表すだけではイノベーションの役に立たないどころか、その足を引っ張る。むしろ事実にもとづかない言葉が求められるようになる。デマやフェイク情報が大手を振って歩き回る基盤がこうして形成された。