ニュース日記 720 カネがありがたくなくなるとき
30代フリーター やあ、ジイさん。カネの使い方を批判されたZOZO創業者の前澤友作が、批判する相手に「お金に囚われムキになっている」「もっとお金から解放されたらいいのに」とツイッターで反論していた。さんざん稼いでおいて何きれいごと言ってるんだと、また批判されただろうな。
年金生活者 彼の言葉は貨幣の物神性、つまりカネをありがたがる長年の社会習慣がわずかずつ衰退しつつあることの徴候と見ることができる。
背景にあるのは富の稀少性の縮減だ。資本主義とテクノロジーの高度化がそれを加速し、カネがそれほどなくても富を享受できる時代を到来させた。
MMT(現代貨幣理論)がいま勢いづいているのは、それが貨幣の物神性を解体する理論だからだ。MMTは、自国通貨を発行できる政府はいくら借金をしても、通貨を増発すれば返せるのだから、債務不履行に陥ることがないと主張する。
だから、政府は増税したり、節約したりしてカネをかき集める必要はない。政府にとって財政を黒字にすること、すなわちカネを貯めることは全く無用なことだ、とMMTは言う。蓄財の必要がないということはカネをありがたがる必要がないということだ。
30代 どこの国の政府も財政を黒字にすることにこだわっている。
年金 貨幣の物神性の衰退は徐々にしか進まない。マルクスは『資本論』で貨幣の正体を商品と考え、その分析を通して物神性の理論的な解体をはかった。だが、貨幣を商品と考えることは貨幣を実体として扱うことなので、物神性を完全に消去することはできなかった。それでも現実の経済では、変動為替相場制への移行、金本位制の廃止によって、物神性の衰退は次第に進んだ。現在それを加速しているのが富の稀少性の縮減にほかならない。
MMTは貨幣を実体ではなく、機能と考える。富を移動させる機能だ。少なくとも国家にとっては、貨幣はありがたがる対象ではなく、いってみれば仕事をする数字ということになる。もし政府が貨幣をそのように扱うようになれば、国家レベルでの貨幣の物神性は解体する。それはやがて社会レベルでの物神性の解体を促すはずだ。国家の民主化が経済の民主化を促したように。
30代 もっと日常の実感に即した説明ができないのか。
年金 このあいだ自宅のエアコンの取り換え工事のため、周りからソファやテーブルをどかしたら、そこにできた空きスペースを工事後もそのままにしておきたい気分になった。何もない空間がそれくらい魅力を増しているといっていい。何もないというのは科学的な意味で何もないということではなく、人間のつくったモノがないという意味だ。
近代文明は空間を人間のつくったモノで埋め続けてきた。その豊かさに文明が飽き始めている。何もない空間は、何でも入れられるという意味で自由空間であり、何でも入るという意味で普遍的な空間だ。そこに魅力の源泉がある。かつてはその自由と普遍性を、モノを増やすために犠牲にしてきた。モノが自由と普遍性を獲得するための手段だったからだ。
その手段があり余るほどになり、ときには自由と普遍性を妨げるようになって、多くの人たちがモノを減らして、何もない空間の自由と普遍性を求めるようになった。モノより空間。キャッチコピー風に言えばそうなる。
30代 それが貨幣の話と何の関係があるんだ。
年金 空間の価値の変化は時間の価値も変えた。カネより時間、とそれを言いあらわすことができる。かつては、モノを得るためにカネを求め、カネを得るために時間を犠牲にした。その時間もまた何もない空間と同様に自由と普遍性を備えている。モノがいっぱいになったぶん、時間を犠牲にしたくないと思うようになるのは必然といっていい。
モノ消費からコト消費へ、と言われる現在の消費のトレンドは、モノ消費から時間の消費へ、と言い換えることができる。
30代 カネがありがたいものでなくなると、利潤を追い求めることもなくなり、資本主義が成り立たなくなるな。
年金 だれも利潤の追求をしなくなったとしても、それで市場経済が消滅するわけではない。
柄谷行人は各歴史段階に支配的な交換様式として交換様式A(互酬=贈与と返礼)、交換様式B(略取と再分配=支配と保護)、交換様式C(商品交換=貨幣と商品)の3類型をあげ、それらを止揚した想像上の様式として交換様式Dを想定した。現在の資本主義はこのうちCが支配的なシステムだ。もしもいつかわからない未来にDが支配的になったとしても、それはあとの3つの様式を包括したものと考えられているから、Cに支えられた資本主義の諸側面が影も形もなくなることはない。
以上から言えることは、資本主義が終わるかどうかという問いの立て方自体を疑ってみないと、いま世界が当面している未知の事態をつかみそこねる恐れがあるということだ。冷戦の終結とともに資本主義か社会主義かといった空間的な囚われから解放された私たちはいま、資本主義が終わるかどうかといった時間的な囚われからも解放されなければならないように思える。