ニュース日記 943 衆院選から見えてきたもの
30代フリーター 裏金以外に争点が見えない衆院選だった。
年金生活者 与党第1党の自民と野党第1党の立憲との間に基本的な路線の違いはない。経済はどちらも「大きな政府」路線に傾き、外交・安保は日米同盟を基軸としている。
30代 自民党はいつも「大きな政府」路線とは限らない。小泉純一郎の政権は新自由主義だと言われた。
年金 たしかに小泉政権の郵政民営化や緊縮財政は「小さな政府」路線だった。これに対し、その約6年後に成立した第2次安倍政権は「大きな政府」路線だった。転換を決定づけたのはリーマンショックだった。この世界的な金融危機を引き起こしたのは「小さな政府」路線を世界規模に広げた新自由主義とされる。
「小さな政府」路線と「大きな政府」路線は景気変動にともなって交互に入れ替わるという従来の認識を否定し、「小さな政府」こそ経済政策の最終の姿と考えるイデオロギーが新自由主義だ。リーマンショックはそれを打ち砕いた。東西冷戦での東側の敗北が、「大きな政府」こそ唯一の正しい経済政策と考えるイデオロギーを打ち砕いたのに似ている。
現在の先進諸国で目につくのは、「大きな政府」路線に傾きながら、「小さな政府」路線も残しておくという傾向だ。アメリカの大統領選では、トランプが「大きな政府」路線を伝統とする民主党のハリスにくらべ、倍以上の財政赤字の増加をともなう公約を掲げているという試算がある一方で、共和党の伝統の「小さな政府」を志向する公約も打ち出している。
日本では、石破茂がバラマキとの批判もある地方創生の交付金の倍増を表明する一方で、市場からはアベノミクスと対照的な緊縮財政派と警戒されている。こうした政府の大小をめぐる路線の混淆は、おそらく野党にも言え、衆院選での与野党の対立軸を不明瞭にする一因になった。
30代 今回の衆院選では、自民党は総裁選で激突した親安倍と反安倍の対立を引きずり、野党はかつてないほどバラバラだった。
年金 自公対野党というこれまでの対立の枠組みに見切りをつけ、新たな枠組みを求める民意が広がり始めているのではないか。
自民の分裂と野党の分散を象徴する選挙区が、裏金事件の責任を問われ、自民党非公認で立候補した安倍派5人衆のひとり萩生田光一の東京24区だ。彼の非公認には懲罰的な意味があったにもかかわらず、総裁選で敗れた高市早苗は応援演説に駆けつけた。一方、野党は裏金の萩生田を倒すために一本化するどころか、立憲、維新、国民がそれぞれ候補者を立てた。
30代 常識的に考えれば、裏金で危機に陥った自民党は結束し、政権取りのチャンスを与えられた野党は手を組みそうなのに、逆向きになったのはなぜか。
年金 自公対野党の対立が対立でなくなりつつあることが背景にある。内政では両者とも「大きな政府」路線を基本とし、外交・防衛は共産やれいわを除き、程度の差はあれ防衛力の強化に傾いている。裏金や旧統一教会との関係の有無は大きな違いだという異議が出されそうだが、それらはいずれも経済や安全保障と違って、国民の生活に結びついていない。
30代 いま振り返ると、2009年の政権交代が奇跡のように思えてくる。民主党、社民党、国民新党が手を組み、共産党は民主党を批判しながら小選挙区の候補者を大幅に減らして政権交代に結果的に手を貸した。野党がこれほど「バラバラでなかった」ことがあっただろうか。
年金 その要因を考えてみると、ひとつは高度経済成長を経て国民が貧困から脱した結果、社会主義か資本主義か、左か右かといった理念的な要素が政治に占めるウェートが低下したことがある。世界史的には東西冷戦の終結が決定的だった。
もうひとつは、そうした変化にあわせて、当時の民主党が従来の理念に代わる新たな理念を打ち出したことがあげられる。それを表しているのが選挙スローガンの「国民の生活が第一」だ。「第一」に考えられなければならないのは、霞が関の利害でも、永田町の利権でもなく、国民の生活だというメッセージであり、右か左かではなく、上(政官)か下(民)かを問うスローガンとなっている。
これは民主党が従来の自民党を磨き直した第2の自民党だったことを物語っている。自民党は理念よりも利権で結びついた政党と言われ続けてきた。この「利権」は国民の生活を守る政策を通じて獲得したものだ。一例をあげるなら、かつて食糧管理法(食管法)のもとで、政府が農家からコメを高く買い入れ、消費者へ安く売り渡していた二重価格制は、農家の生活を守るとともに、その見返りとして自民党へ政治献金と選挙の票が入ってくる利権のシステムでもあった。
この生活密着型とも言える自民党の政治の流儀から「利権」の部分を除去し、すべてを国民に還元しようというのが「国民の生活が第一」のスローガンと考えることができる。自民党内で利権をめぐる抗争に明け暮れた小沢一郎が、そこでの勝者になるだけでは満足できず、それを超える野望を抱いた結果がこのスローガンのもとでの政権交代だったということができる。