老い老いに 4

 私が2号から連載したのは、「おばの話」だ。伯母は3歳の時に髄膜炎を患い、命はとりとめたものの、半身に麻痺が残り、知的発達が遅れた。障がい児教育に携わるようになったのは、当時担任していた児童のことが直接の要因だ。けれども、それまでも気になる子たちのことをずっと引きずってきており、その根っこには伯母の存在があった。出雲に帰った中学1年から高校を卒業するまで共に過ごした伯母との日々は、物の見方や考え方に大きな影響をもたらした。まずはそれを書きたかったのだろう。その後、「おばさん学生見聞録」も書いているから、当時歩み始めた障がい児教育に結構な熱を入れていたようだ。

 その中間に連載したのが「腐ったかぼちゃ」。これは通信を始めようとの話があってすぐに夫が解離性大動脈瘤で入院した時の顛末を書いたものだ。普段通り出勤した夫が病院に運ばれたとの知らせを受け、急いで病院に向かう。診察室に入ると、付き添ってくれた二人の教諭と話している夫を見て一安心。痛むという背中を摩りながら話を聞く。「胃かな、肩かな」などと言っていたが、CTの結果説明で重篤な状態にあることを思い知らされた。心臓から全身に向けて出る大動脈の内壁が裂け、流れ出た血液が輪切りの画像では三日月形に見える。腹部に近いところまで三日月が写っていた。運ばれた病院には心臓外科の専門医がいないとのことで、その日はCCUに入れられ翌日日赤に運ばれることになった。

  久々に「腐ったかぼちゃ」を読み返すと、その夜のことがまざまざと浮かび上がる。担当医に、いつ何が起こるか分からないので院内で待機するよう言われたのだ。一旦家に帰り、入院に必要なものを揃えながら、義母にどう伝えるか考える。義母が我が子(義弟)を亡くしてまだ2年経っていない。胸の痛みで入院すること、一晩付き添うことを伝え、子どもたちには義母の言うことを聞くよう言い聞かせ病院に引き返した。寝具を備えた部屋で過ごすが、眠れるものではない。家を建て換えたばかりだ。もし夫に何かあったら、一人で家のローンを払い、子どもたちを育て、老齢の義母の面倒をみるなんてできるだろうか。規則正しい時計の針の音が頭の底に響き続けている中、答えの出ない問いを繰り返していた。