ニュース日記 924 選挙の不自由
30代フリーター 衆院東京15区補選で街頭演説を妨害したとして「つばさの党」の代表ら3人が公選法違反(選挙の自由妨害)の容疑で警視庁に逮捕された。朝日新聞は「異例の逮捕」と報じている(5月18日朝刊)。
年金生活者 「異例」を「通例」に近づけ、選挙への介入の余地を広げたい警察の隠された意図が感じられる。
街頭演説中の無所属候補の陣営の近くで、拡声器を使って怒号を浴びせたり、車のクラクションを鳴らしたりして、演説を聴き取りにくくしたのが容疑とされている。これが事実だとすれば、容疑者らが逮捕前に主張していた「選挙の法律を守り、言論で勝負している」という言い分はなかなか通らないだろう。ただし、だからといって、逮捕までする必要があったかどうか疑問が残る。
30代 朝日新聞の記事によると、「ある捜査幹部」は逮捕が必要な理由として証拠隠滅の恐れをあげている。容疑者らは選挙後も個人を標的に攻撃を続けており、「こうした威迫行為が繰り返されると、被害届の取り下げなど、被害者の捜査協力が得られなくなる可能性がある」として、被害者の証言という重要な証拠の隠滅の恐れを指摘したという。
年金 この事件の被害者らが被害届を取り下げる可能性はきわめて低いと言わなければならない。候補者をはじめ選挙運動の主要な担い手たちはその立場からして「妨害には屈しない」と主張するはずだ。警察の捜査を積極的に望み、泣き寝入りなどしない可能性が高い。捜査幹部の説明には取ってつけたような無理が感じられる。
2019年夏の参院選で、演説中の安倍晋三に「安倍やめろ」などとヤジを飛ばしたふたりが、警察官に肩や腕をつかまれて移動させられたり、長時間付きまとわれたりしたとして、表現の自由の侵害を理由に北海道に損害賠償を求める訴訟を起こし、一審で勝訴した。二審ではうちひとりの請求が棄却されたが、警察は街頭演説への介入を従来より制約されることになった。
今回の逮捕は、それに対する警察側の「反撃」ととらえることができる。新しく逮捕の実績をつくることによって、それを威嚇に使い、ヤジを飛ばしにくくすると同時に、実際にも逮捕できる余地を広げようという意図がうかがえる。
30代 選挙の自由を確保するために、選挙の自由を制約する構造になっているのが公職選挙法だ。そこには、個人の自由な振る舞いが他人の自由な振る舞いを侵害する可能性があるという、自由のはらむ矛盾が集約されている。
年金 選挙は競争であり、市場の競争をモデルにしている。候補者Aと候補者Bが有権者の票を奪い合う争いは、商品Xと商品Yが買い手の金を奪い合う争いを原型としている。
それらの争いの前提になっているのは、有権者も買い手もどちらか一方しか選べないという制約だ。その制約は稀少性と言い換えることができる。選挙なら政策の稀少性であり、市場なら富の稀少性だ。
この稀少性が解消されれば、競争は不要になり、したがって選挙も市場も不要になる。国家や自治体の予算が限られていれば、橋を架けますという候補者Aの公約と学校を建てますという候補者Bの公約のうち、どちらか一方をあきらめなければならない。だが、予算の稀少性がゼロなら、両方とも実行に移すことができる。商品Xと商品Yも富の稀少性がなくなれば、もはや商品ではなく、ただのXとYになり、両方とも手にすることができる。
30代 ジイさんの好きな吉本隆明は「個人の自由と個人の自由とが重なり合う領域があって、そこで互いの領域を侵害してしまうという形で、どうしてもマイナス面が出てしまう、そういうマイナス面をもつことを資本主義は免れないよ、ということですね」と言っている(『超「戦争論」下』262ページ)。
年金 「自由が重なり合う領域」が出てくるのは、領域全体が狭いからだ。言い換えれば富の稀少性が残っているからだ。資本主義はこれまでその稀少性を飛躍的に縮減してきた。だが、それをゼロにしてしまうと、自らが倒れる。資本主義は競争を駆動力とし、競争は稀少性なしには成り立たないからだ。
もし、資本主義がその駆動力を失い、終焉を迎えることがあれば、選挙という制度も寿命が尽きるだろう。つまり私たちが民主主義と呼んでいるシステムは終わる。
30代 投票で選ばれる代表者がいなくなったとき、いま行政が担っている仕事はだれによって選定され、決定されるんだ。
年金 そのとき社会は、選定も決定も必要のない社会になっているので、その問いは意味がない。富の稀少性がゼロであれば、あれをするか、これをするかの選択は不要だからだ。
ただ仕事の段取りをし、実行する担い手がいればいい。吉本隆明はそれを町会のゴミ当番にたとえた。ゴミ置き場をどこにするか、出す日はいつにするかなどをめぐって、大きな対立に至ることはまずない。だから、対立する利害の代表者を投票で選ぶ必要はない。順番にやれば済む。ゴミ当番は富の稀少性がゼロになり、「自由が重なり合う領域」が消滅した状態の比喩になっていると考えることができる。