がらがら橋日記 壺

 

 古典落語は、江戸から明治にかけての噺が中心である。当然、時代に合わせて変化はしているが、人物の風体、大道具、小道具類は、替えてしまうと噺が成り立たなくなることも多々あって要注意。

 子どもたちに落語を教えていて、知っているものとして話していたらどうも反応が鈍いので、聞いてみると「それ、なーに?」ということがある。この間も噺の重要アイテムの扱いをやっきになって教えていたら、見に来ていたお客さんに、

「知らないんじゃないの?教えてやらないとわからないわよ」

と言われてハッとした。

「えっ、ワラジってどんなものか知らないの」

と問うと、決まり悪そうにうなずくので猛省した。もっと早くにここに気づくべきだったのだ。

 物心つくと、寝間着(パジャマではない、念のため)を尻からげして、家の中を走り回り、岡っ引きに成り切っていたザ・昭和の子どもなど、もうどこにもいないのだ。精神の半分が時代劇で形成されたぼくには、ワラジを知らないということがにわかには信じがたいのだが、今の子どもたちは時代劇に触れる機会などまずない。

 ある、まぬけなどろぼうの噺。成績が上がらないので親分からクビを言い渡されたが、頼み込んで起死回生の盗みに出かける。忍び込んだところまではよかったが、重めの壺に目を付けたら落として割ってしまう。そこからのドタバタ劇が楽しい噺である。これも子どもが演じているうちに、どうも、イメージされていないようだと私もそして稽古を見に来ていたお客さんも気づいた。無理もない。紐で紙の蓋が結わえてある壺など、日常で見ることなどないのだから。となりの通りから来てくれたおばさんが言った。

「うちにちょうどいい壺があーけん(あるから)今、持ってきてあげーわ(あげるわ)。そーに(それに)新聞紙張ってビリビリって破ってみーだわ(みてごらん)」

 保護者が恐縮していると、

「いーけん、いーけん(いいから、いいから)、好きなほど練習して、終わったらうちの前に置いちょいて(置いておいて)ごしなりゃ(くれたら)いーけん」

とすぐに立ち上がって取りに行ってくれた。

 ここにも昭和の風物が継承されないことを惜しむ人がいた。味噌醤油のやりとりというのとは違うけれど、何だかいいなあ、いいなあ、とこの光景を眺めたのだった。この子、寄席の本番では、想像の壺を見事に扱ってみせた。