がらがら橋日記 席亭です
前号で、「ぼくが落語を指導してよいのか」という疑問を書いた。言葉にしてしまうとなぜか跳ね返ってくるもので、
「先生、落語して」
と、ある子に懇願されてしまった。
「いや、ぼくはできないのだ」
と言うと、なぜ、どうして、と追求してくる。これまでずっと先の問いを抱えていながら、いざ突かれるとしどろもどろになってしまう。情けない。なぜきちんと答えられるように考えておかないのだ、と我が身を責めたが、事態に直面しないと思考が働かない人間なのだから仕方がない。
その場では答えられなかったが、その子のおかげで考えがいくらか整理できた。ぼくが許されるのは、どうしたらおもしろくなるか、子どもといっしょに考えるところまでだ。
昔も今もプロの落語家になるためには、師匠のもとに弟子入りしなければならない。それは落語が型を伝える芸能だからで、そのためには個性の尊重などとは別次元の師弟関係を結ばないとうまく伝わらないのだと思う。場合によっては弟子がそれまでに培った技術や思いなど全否定して伝えるのだから、素人が真似できるような代物ではない。
ならば、ぼくにできること、またしていることは何か。自問してたどりついたのは、子どもたちに人前を提供する、ということだ。たくさんの人の力を借りて落語会や稽古場を設え、子どもたちを高座に上げる。その繰り返し。ぼくは、子どもたちにとって落語家というより、席亭であるべきだと思った。
落語は、いくら稽古しても人前で話さないと上達しないと言われる。それはぼくも実感しているところで、どの子どもも例外なく、お客様の前でしゃべるごとに上手くなっていく。消え入りそうだった子どもがまっすぐ顔を上げて、堂々と話せるようになっていくのを見て、よく驚かれる。それを場慣れと説明し、わかったような気になるのだが、では場慣れとは何か。子どもたちの何が変化しているのか。
先日、デイサービスで初舞台を踏んだ子に、どうだった、と聞いた。
「すごく楽しかった。前にいたおじいさんが笑ってくれて。また行きたい」
「へえ、初めてなのにお客さんの顔が見られたんだ」
「見えますよ。にこにこして聞いてくれてるのがわかりましたもん」
子どもたちの中で変化しているものって、きっと人への信頼なのだろう、とぼくは思っている。