空き家 7 これからの家④
少し前に点訳した本に、太古の昔、出雲と越(敦賀湾から津軽半島の一部まで)の人々との交流があったことが記されていた。今回被災した珠洲市が昭和63年に美保関町(現在は松江市)と姉妹都市となっているのは、珠洲岬がくにびき神話で越から引っ張って来たと書かれている縁からだ。美保関の地名の由来となったミホススミノカミは、越の国のヌナカワヒメと出雲大社に祀られているオオクニヌシノミコトとの間に生まれている。福井県の遺跡からは出雲特有の四隅突出型墳丘墓が発見されたり、能登では山陰系土器が出土したりもしている。出雲という字が付いた地名、オオクニヌシノミコトを祀る出雲神社等も越の国には多いとのこと。昔から、人々はその地に定住する人たちもいれば、文化や技術を広めるため、あるいは新たに開拓するため、違う土地へ移るということをしていたようだ。
そう考えると、律令国家では、貴族が国司などとして中央から地方に派遣され、民は防人として防衛の任のため九州などに遣わされた。武士の世では、領国争いに巻き込まれ、権力者によって移封させられる事態になると、不毛の地へ移らねばならないこともあった。家長制度の中にあっては、家に残るのは長男で、他の子どもたちは家を出なければならない。生まれた家にずっと住むことができるのは限られた人だったのだ。
自分の身内だってそうだ。9人兄弟の五番目に生まれた父は、戦後の混乱期には働き口がなくて転々とした末、結婚後の安定した生活のため、紡績業の盛んな大阪の泉南に出向いた。借りていた長屋の住人には九州や山陰の出身者がたくさんいた。あのまま泉南に居て、出雲には帰らなかったかもしれない。父の義兄であり朋友でもあった伯父など、たまたま降り立った尼崎で郷里の知り合いに会ったことがきっかけで職を得、そこが終の棲家になった。
生まれ育った家で最期を迎える人などほんの僅かで、様々なところに移り住む人が多いのかもしれない。松尾芭蕉の奥の細道の冒頭の言葉が浮かんでくる。「月日は百代の過客にして…船の上に生涯を浮かべ…日々旅にして、旅をすみかとす…」