がらがら橋日記 塾生募集中
先月、塾生5名で、と書いた落語教室生は、さらに増えて、現在9名になった。3年して一人も来なかったら諦めるつもりで始めたにしては、どう考えても出来過ぎだ。
落語家のもとで修行した経験皆無のぼくが指導していいのか、という根本的な疑問は、常に頭から離れることはないのだが、だれもそこを突いてこないので、とりあえず棚上げにしている。仮に聞かれたら、小学校に40年近く勤めて、それぞれの学年にどの程度要求できるかおよそ見当が付くのと、営業に回るのが好きなのとを言って、見逃してもらうつもりだ。
「何人まで受け入れるんですか?」
保護者に聞かれて、返答に困ってしまった。3人になったときに同じように聞かれて、松江の人口規模から言って、落語教室に通いたい、通わせたいと思うような親子がいる確率はこんなもんだと思います、とデタラメを答えていたが、ひょっとすると確率はもう少し高いのかもしれない。どこで、もう無理、となるかはやってみないとわからないので、今はまだ入塾を断ったり、待機をお願いしたりは考えていない。
増えた理由はごく明快だ。先に入塾した子どもたちが実に楽しそうに落語をしているのを実演で、あるいは動画で見た子が、自分もしてみたくなったのである。親戚で集まったり、家に客人が来たりしたとき、乞われるままに一席披露したりすると、こども落語の物珍しさも手伝って、やんやの喝采を浴びるらしい。子ども自身、喜んでいる人たちを見て悪い気がするはずがなく、どうやったらもっと喜んでもらえるか考える。好循環である。だから、人前で演じたな、というのは、ちょっと聞くとわかる。覚えたことを言っているのと、人に笑ってもらった経験を含んでいるのと、声も顔つきも違ってくるのだ。
子どもたちが、お客さんを前に、噺のおもしろさをを伝えようとし、思った通りに笑いが起きる、それは子どもたちとって劇的なことなのに違いない。見ず知らずの一回限りの出会いでも、感情が共有できることを肌で知るのだから。子どもたちが人前で話すごとに変わっていくのを見ていると、人間への信頼を蓄積していってるのだなと思う。
でも、一方でこうも思うのだ。人と人の間に電子機器がなだれ込んでくるのを避けられない時代にあって、じっくりと人の話を聞く、あるいは、聞いてもらう落語という器が、大人が考える以上に子どもには新鮮に見えるのではないか。落語をやってみたい、高座に上がりたい、という子どもたちの欲求の中には、健康な飢えが潜んでいるのかもしれない。