空き家 6 墓⑤

 

 学生時代、共に汗を流した同期のMがこの世を去って3年になる。義母が亡くなる10日前だ。当時はコロナ禍で病室の出入りに制限があり、県外に行くことも自由でなかった。だから、見舞いは元より、葬儀にも参列できなかった。ようやく墓参りが叶ったのは、昨年の11月の同期会。都合がつかなかった一人を除き、6人でお参りした。

 新築の家を見せてもらったのは10数年前のことだった。「ここはお客さんに泊まってもらうところ。いつでも来んさい」と3階まで案内してもらった。奥さんが不在のため家には寄らず、直接墓に行った。家から歩いてすぐの見晴らしのいい高台に、新しい墓石が建っていた。「あいつ、死ぬ前に自分でこの墓作ったんだとよ」。Yがぼそりと呟いた。不調の原因が半年も不明で、判明した時は遅かった。携帯電話を通して耳にした低い声が蘇ってくる。まだまだ名残のある人生に区切りを付けねばならず、自分の墓石を建てるMの思いがぐっと胸を突き、墓石の前に並ぶ同期たちの姿がぼやけた。孫の話をとろけそうな目で話していたM。奥さんや子どもや孫たちが近況報告に訪れることを待っていることだろう。

 これはもう4半世紀前のこと、長岡の義妹が墓を建てた。30歳の時、東京で一緒に暮らしていた夫である義弟を亡くした後、実家のある長岡に帰り、二人の子どもを育てた義妹。実家から少し離れたところに家を建て、ご両親や妹一家と行き来しながらその後30年以上を過ごした。義弟は故郷の松江から遠く離れた長岡の地で眠っている。「一緒に付いて行く」と動かなくなった義弟に泣いてすがった義妹は、二人の愛の結晶を立派に育て、今は二人の孫にも恵まれている。義弟も、愛する奥さんと、息子に娘、その子どもたちの側で、皆を見守っていることだろう。

 墓は、これから未来を行く人たちを見守り、未来に生きる人たちの心の支えになるものだ。ただ、生家の近くに建つ墓は、その未来の日々が限られてしまった。これから未来を生きる者たちの荷をなるべく軽くするために、片を付けねばならないと思うのだ。