ニュース日記 910 どうぞ私を傷つけて

 

30代フリーター 災害や事故のニュースを見聞きするたびに、心の傷が体の傷に劣らず重視される時代になったのを感じる。

年金生活者 個人消費に占める選択的消費の割合が必需的消費のそれと肩を並べるまでに増大したことが背景にある。心による生産と消費が拡大し、それだけ心が損傷しやすくなった。

30代 どちらの傷も痛みを強いることでは同じだ。

年金 『痛みの文化史』(デイヴィド・B・モリス著、渡邉勉/鈴木牧彦訳)という本によれば、「生まれながらに痛みを感じることができない稀な人びと」がいる。「痛みを感じないで六メートルも飛び降りてしまう子供にとっては、遊び場は一ダースもの死の罠が仕掛けられている場所なのだ。苦しみと無縁でいられたら、と私たちはときに望んでしまう。しかし、おそらく私たちは奇妙な考えになじむべきだろう――痛みのないことではなく痛みこそが真の恩寵なのだ、と」

 このことはフィジカルな痛みだけでなく、メンタルな痛みにも言えるだろう。私たちは心についても「痛みの感覚を役立てて姿勢を調整したり、位置を変えたりしている。そしてこのような微細な修正が連続して行われないと、私たちの骨格はそれを保護している関節の組織を損傷してしまい、炎症や感染が生じる」(同書)。体と同様に心もまた痛みを感じることができなければ、あちこちを損傷し、炎症を起こすだろう。

30代 痛みが強すぎると、損傷や炎症以上の地獄に導かれる。

年金 人は日常的に大小の痛みを感じながら生きている。痛むことは、心にとっても標準状態であり、医療やケアが必要になる強い痛み、激しい痛みは例外状態と言っていい。また、標準状態の痛みにも度合いの変化があり、痛みが強めのとき、人は様々な言葉を声にしたり、頭の中で思い浮かべたりして、心を手当てしている。「痛っ!」という反射的な叫び、「クソ、あいつめ」という怒り、「これくらいで済んでよかった」といった気持ちの切り替えの「呪文」などが繰り返される。

 それが可能なのは、言葉が対象を指し示すだけでなく、心の位置と向きを決定する働きをするからだ。「痛い」のに、「痛くない」と言ってみたところで、痛みが消えるわけがない。そう言い切れるのは、言葉を対象を指し示す道具としてだけ見ているときだけだ。

30代 「言葉の力」とよく言われるが、フィジカルな力ほど明瞭ではない。

年金 ラカンの次のような指摘は、人間は生まれながらにして言葉に囚われていると言っているように受け取れる。

「男たち、女たち、そして子どもたちは、シニフィアンでしかないのです」(『アンコール』藤田博史、片山文保訳)

「男たち、女たち、子どもたち」はいずれも、吉本隆明のいう「対幻想」の領域に属する存在、つまりペアで成り立つ存在を指す言葉だ。男と女、親と子といったぐあいに。対幻想の「幻想」は「感情」を骨組みとして成り立っている。吉本が『心的現象論序説』で「好く・中性・好かぬ」と呼んだ感情だ。

その感情はラカンの指摘に反して言葉以前のもの、「前ディスクール的な現実」(『アンコール』)そのもののように見える。「好き」とか「嫌い」とか「好きでも嫌いでもない」といった感情は、それを言葉にする前に既に存在していると通常は思われている。だが、ラカンはそうした感情を持つ「男たち、女たち、子どもたち」を「シニフィアンでしかない」と言う。すなわち感情は言葉に支えられている、言葉なしに感情は起動しないと言っている。

30代 たとえば何かに頭をぶつけて、思わず「痛っ!」と叫んだとする。それはどんな感情を引き起こすんだ。

年金 痛いと感じるのは感覚の作用だ。それは言葉なしに起動する。それに反応して「痛っ!」と叫ぶとき、あるいは声にはしないで心の中で叫ぶとき、感情が生まれる。不安、恐怖、怒りなどだ。

「痛っ!」という叫びは、吉本の言語理論に従えば「一番大きな自己表出性と微弱な指示表出性から成り立った言葉」で、「感嘆詞に近い自己表出性を持った言葉」ということができる(「言語にとって美とはなにか」角川ソフィア文庫版まえがき、『吉本隆明全集8』)。私の理解では、自己表出とは、さっき言った心の位置と向きの決定、写真にたとえればアングルの決定だ。それが感情を起動する。だとすれば、私たちは言葉を使ってある程度まで感情をコントロールすることができるという考えに導かれる。

30代 そううまく行くか。

年金 実行の方法を紹介する本がいくつも出ている。私もそれらを手がかりに、やっかいな感情とつき合っている。

もうひとつ言えるのは、痛みを恐れるあまり傷つかないようにしようとすればするほど、傷つくリスクが増し、傷ついたときの痛みも大きいということだ。私は電車や店の中など人と接触しなければならない場所では、「どうぞ私を傷つけて」と頭の中でつぶやくようにしている。傷つけられるのではないかという恐れが和らぎ、心の硬直がほぐれるぶん、実際に打撃を受けたとき、柔道の受け身のようにそれを緩和することができる気がする。