ニュース日記 909 弱さを差し出す

 

30代フリーター 去年、こんな記事を見た。

「『年収が多くても暮らしに余裕なんかない。優遇措置が多い非課税世帯はずるい』『本当の弱者は男性、守られる立場の女性がうらやましい』……。世間的には『勝ち組』とされる人が自ら弱さをさらけ出し、時には他の弱者を攻撃する『弱者争い』のような状況がSNSなどで起こっている」(2023年11月2日朝日新聞デジタル)

年金生活者 弱いことはダメなこと、恥ずかしいことだというイデオロギーを推進力としてきた資本主義が、多数の弱者を養えるほど膨大な富を生み出すまでに発展した結果、かつて切り捨てられていた弱者が権利の主体として社会に公認され、弱さはダメなことではなく、ときには武器になるとさえ考えられるようになった。それが弱さを競う現象に結びついたと考えることができる。

30代 資本主義以前には弱さがダメなこととは考えられていなかったということか。

年金 弱さをマイナスの価値と考えるイデオロギーが広まったのは近代になってからだ。競争を駆動力とする資本主義が労働力を互いに競い合う商品にしてしまった結果、人間の生活が勝ち負け、強弱の物差しに支配されるようになった。

 労働力の商品化は、第2次産業を牽引車とする産業資本主義が利潤をあげるための必須の条件だった。労働者とその家族は自らの労働力の安売り競争の中に投げ込まれ、資本家に提供する利潤をせっせと稼がされた。

 やがて資本主義は第3次産業を牽引車とするポスト産業資本主義の段階に移り、イノベーションを利潤の源泉とするようになる。労働力商品どうしの競争は相対的にそのウェートを低下させ、一般の労働者はかつてほどは勝ち負け、強弱を物差しとする生活を強いられなくなった。高度化した資本主義は富の稀少性の縮減を加速し、弱者の切り捨てを必ずしも必要なこととはしなくなった。

30代 それはひとつの進歩だろう。

年金 もともと人類は弱さを力と考え、恐れさえしてきた。それにくらべれば、ポリティカル・コレクトネスにもとづく現在の弱者の尊重など生ぬるいと言える。人類学者のデヴィッド・グレーバーと考古学者のデヴィッド・ウェングロウの共著『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』には、後期旧石器時代の豪奢な墓に、異常に背が低かったり、逆にきわめて背が高かったり、極度の猫背だったりする人びと埋葬されていたことが紹介されている。そうした「顕著なる身体の特異性を示してい」る人たちが「階層的エリート」だったとは考えられない、と著者たちは推定している。言い換えれば、被葬者はマイノリティーであり、社会的な弱者だったと想定される。

30代 力ずくで人を動かそうとしても逆効果だという教訓として読まれているイソップ寓話の「北風と太陽」は、強者が必ず勝つとは限らないことを語っている。

年金 だが、北風も太陽もともに力を使って旅人の外套を剥ぎ取ろうとしたことに変わりはない。悪く言えば、一方は風の力を、他方は熱の力を使って旅人を拷問にかけた。

 その結果、旅人は北風に対しては、外套を飛ばされまいと必死で押さえ続け、太陽に対しては、暑さに耐えきれず外套を脱ぎ捨てるという行動に出た。しかし、いずれも心を動かされた結果ではなく、仕方なく体を動かしただけだ。

 もし旅人がそのとき、寒さに震える子供に出会っていたら、外套を脱いでその子に着せてやったかもしれない。それは弱い子供に心を動かされたからであり、強いだれかに強制された結果ではない。人の体を動かす力は弱者よりも強者がまさっているが、人の心を動かす力は強者よりも弱者がまさっていることが多いと言える。

30代 その理由はどこにあるのか。

年金 人は弱者に遭遇したとき、そこに弱いおのれの分身を見て、庇護したくなる。もとはといえば、自分はその分身と一体だったはずだ。なのに、いまは互いに片割れを欠いた存在となり、その結果どちらも弱い存在になってしまった。ふたたびひとつになれば、その弱さを乗り超えられるかもしれない。だが、それは現実にはかなわないことだ。代わりに相手を庇護することでかなわないところを埋め合わせるしかない。

 そのモデルになっているのが母の在り方だ。もとは一体だった我が子を自身から引き離してこの世界に追いやった母は、その代償として全面的な庇護を子に与えようとする。子にそうさせる力や強さがあるのではない。子の無力さ、弱さが母の心を動かす。おのれの弱さを差し出すこと、そこに生きることの原点がある。

 「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」「わたしは弱いときにこそ強いからです」(パウロ、「コリント信徒への手紙二」、『聖書 新共同訳』)

30代 それを実行に移すのは難しいことだ。

年金 先の大戦で一敗地にまみれた私たちの国は、弱さを世界に差し出すことによって、強さに代わる安全保障上の抑止力を手にした。憲法9条はその宣誓書にあたる。それが重ねてきた実績を忘れるわけにはいかない。