ニュース日記 901 依存症からの解放

 

30代フリーター ジイさんがかかったアルコール依存症を専門分野のひとつとする信田さよ子というカウンセラーが朝日新聞の「語る――人生の贈りもの」というシリーズに登場していた。

年金生活者 依存症の特徴のひとつに習慣性がある。毎日酒を飲む、毎日パチンコをする。

 もともと習慣というのはやめるのが難しい。習慣そのものに依存性があると言える。ニーチェが「私は短期の習慣を愛する」(『喜ばしき知恵』村井則夫訳)と言ったのは、習慣の依存性を警戒していたからかもしれない。

 やる気というのは、やる前には起きなくて、やり出してから起きるという脳科学の研究結果がある。アルコール依存症になると、飲む前よりも飲み出してからのほうが飲みたい欲求が強まる。依存症のメカニズムは、やる気を引き起こす脳の仕組みに由来していることをうかがわせる。

30代 やる気はやる前に起きてほしい。

年金 やり出してからやる気が起きるのは、やり出すと必ずやり足らなさを感じるからだろう。やること、行動することは、必然的に環境の制約を受ける。100%思い描いた通りになることはない。当人は自分がやり足らないからだと感じる。その不全感を埋めようとして、もっとやろうとする。

 アルコール依存症者が酒を飲み出すと、ますます飲む気を募らせてしまうのも、酔い足りない不全感を埋めようとするからだ。非アルコール依存症者は飲めば飲むほど飲みたくなくなるのに、アルコール依存症者は逆になる。

30代 それがわからない。どんなにうまい物でも腹いっぱいになったら、食べたくなくなるだろう。

年金 飲めば飲むほど飲みたくなるアルコール依存症の特性は治療に利用されている。とにかく1日だけでも酒をやめてみる。すると「やめる気」が起きる。なぜなら、飲みたい気持ちは残っていて、やめる気は十分とは言えないから、その不全感を埋めようとして、翌日もう1日やめようという気になり、その翌日もまた、となる可能性がある。実際には飲みたい欲求が上回ることが多いが、酒を断つ有効な方法のひとつとされている。

30代 習慣をなかなかやめられないのは俺にもわかる。

年金 やめるのが怖いからだ。それは自らの所属する共同体に背くときの恐れに似ている。つまり習慣は時間化された共同体と考えることができる。

 たとえば私が朝の散歩を日課にしたとする。散歩する私はいつも同じ私には違いないが、日によって体調も気分も性格のあらわれ方も異なり、その意味ではいつも違う私がいる。そこで、1日目に歩いた私を私1と名づけると、2日目は私2が、3日目は私3が歩き、そのまま続いていくと、N日目には私Nが歩くことになる。

 それらの私を足し合わせると、私1+私2+私3+……私Nとなり、N人の私による共同体が形成されたとみなすことができる。私たちがふだん共同体と呼んでいるものは、同時に存在するN人によって形成されている。それに対し、同時ではなく時間をかけてN人になった私が形成する共同体が習慣だ。

 共同体に背こうとして怖くなった経験はだれにでもあるはずだ。習慣をやめることは時間化された共同体に背くことだから、同様の恐れを強いられる。アルコール依存症者が酒を手離せないのは、酔っ払うのが気持ちいいからだけでなく、しらふになるのが怖いからだ。

30代 ジイさん、今は平気なのか。

年金 アルコールへの依存から解放された代わりに、ネットへの依存が進んでいるのに気づいた。パソコンやスマホを見る時間が家事や運動をする時間を侵蝕しだした。それで最近、パソコンとスマホを使う時間を制限し始めた。それまで起きているあいだほぼずっと入れっぱなしだった電源を朝と夕方と寝る前だけ入れるようにした。OFFにしているあいだ落ち着かないのではないかと思ったが、意外なことに逆に解放感を覚えた。

 それは酒を飲むのをやめたときの解放感に似ている。それまで飲むこと以外のあらゆる行動がつまらなく思え、何をするのも苦しく感じられたのに、飲むのをやめてみると、その苦しさが消え、することなすことが新鮮に感じられるようになった。いま振り返ると、鉄鎖から解き放たれ、体が軽くなったような感じだった。

 この解放感がネット依存の場合と同種のものだとすれば、それはアルコールに蝕まれた身体の不調からの回復だけによるのではなく、依存というメンタルな不調からの回復によるものと考えなければならない。

 習慣が症状にエスカレートしたのが依存症と考えるなら、そこからの回復は習慣からの解放でもあるはずだ。その習慣が飲むこと以外の行動をつまらなくし、苦しいものにしてきた。鉄鎖につながれた身体にとって、食べることと排泄すること以外のほとんどの行動がつまらなく、苦しいものであるように。

 習慣のこの鉄鎖としての機能は共同体の掟と同種のものと言っていい。共同体に背くのは怖いが、背いてみると、解放感を覚える。ニーチェはこうも言っている。「持続する習慣を私は憎む。暴君が近くにやってきたような気がするのだ」(『喜ばしき知恵』)