がらがら橋日記 Imagine
公開稽古は、思いのほかお客さんが来られたうえに落語家の満足度も高かったので、直後から妄想が暴走気味だ。黙っておられず、構想の一つを妻に話したら、また始まったという表情でたしなめられた。これでいくらか鎮まって少し落ち着いて考えられるようになるのだが、これもやっぱり相変わらず繰り返している。たぶん死なないと直らない。
今、塾の教室で使っている実家を片づけたとき、ほぼすっからかんになった部屋を見渡していたらふと浮かんだ。ここで落語会をやろうと思えばできるじゃないか、と。思いついてしまえばあとは妄想の出番となり、プランだけは次々と具体化していった。東奥谷寄席という名前から、月々招く落語家まで浮かんでき、町内のお年寄りたちが座布団や椅子に開演よりずっと早くに座っているところだって見えてくる始末だ。さすがにこのときは妻に話す前に「いや、こぎゃんせめとこで(こんなせまいところで)駐車場もないに(ないのに)無理だ」と現実が見え、壁に貼ったポスターみたいに関心が薄れていった。
今回の稽古は、手製のめくり台の横で子どもが座布団に座って話し、向かい合ったお客さんが拍手をしたり、声をかけたりしているのだから、公開稽古とは言い条、まるで高座そのものだった。そしてこれは、消えたはずだったかつての妄想が少しばかり形を変えてそのまま実現したのだった。
公開稽古後に、そういえばこの光景を思い描いたことがあったぞと気づくまで、ぼくはかつての妄想を一度も心に浮かべたことはなかった。これを不思議と名付けて引き出しにしまってもいいのだけど、なんでこうなったのか、おもしろいから考えている。
塾を始めるのも、実家を教室にするのも、落語教室を併設するのも、どれもぼくの発案ではなく、積極的になれかったばかりか、あれこれ理由を挙げて反対さえした。もしかつての妄想がぼくの胸の中で消えることなく息づいていたなら、しめしめと思って飛びついたことだろう。かといってすっかり忘れていた妄想と公開稽古の光景はまったく無縁で偶然に過ぎないとも思えない。妄想の記憶が意識に上らないだけで脳内か体内のどこかに残っていて、磁石みたいにそれへ近づけたのか。こうも考えた。空想とその実現が一人の中で連続するとは限らない。本人のあずかり知らぬところでだれかの加工を経て形になるのでは。だとしたら、憎悪が生み出す妄想にもそんな力があるのだろうか。正視が憚られる悲惨な光景が日々流れる。笑っちまうほど無力だが、ならばぼくは、せっせとご近所や子どもたちの笑い顔を思い浮かべることに努めよう。