ニュース日記 894 愛と交換の起源
30代フリーター 愛とはお金を与えたり、与えられたりすることだという考えが広まりだしている気がする。「パパ活」の流行?はそれを示しているのではないか。
年金生活者 もともと愛とお金は親和性が高く、それが今あらわになってきたとも言える。
貨幣は交換から生まれた。交換のモデルになっているのは、母またはそれに相当する大人と乳児の関係だ。母は子に授乳や排泄の始末をはじめとする全面的な庇護を与え、子はそのお返しとして笑顔と寝顔を見せる。そこに愛の起源と同時に贈与交換、柄谷行人の言う交換様式A=互酬(贈与と返礼)の起源を見ることができる。
パパ活は売春と重なる面があるが、違うのは前者が特定の相手との間に成立するのに対し、後者が不特定の相手を前提にしている点だ。パパ活には愛の成立する余地があるのに対し、売春にはそれがほとんどない。柄谷は交換様式としてAのほかにB=服従と保護(略取と再分配)とC=商品交換(貨幣と商品)を想定している。その考えにしたがうと、パパ活はAに、売春はCに該当すると言うことができる。
パパ活は、結婚が愛の王道ではなくなりつつあることを示している。婚姻は愛と交換様式Aの強制的な合体を意味する。資本主義の高度化が加速した富の稀少性の縮減は、そうした強制を不要にしつつある。欧米の先進諸国で法律婚が減ったのもそのあらわれと言える。
30代 ラカンは「愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ」と定義していると、あるサイトにあった。お金を与えることは持っているものを与えることだから、愛ではないということにならないか。
年金 母がしてくれる授乳や排泄の始末を子は「負債」と感じ、何かを返したくなる。しかし、生まれたばかりの乳児は、返せるものを何も持ち合わせていない。そこで代わりに返すのが笑顔と寝顔だ。だが、それらは一時の表情であって、持ち物ではない。つまりそれは「持っていないものを与えること」を意味する。お金は大人になって失われたその笑顔と寝顔の代わりだ。
30代 乳児がそんなことを考えるなど、およそ現実離れしている。
年金 「負債」という言い方は「欠如」という言葉に置き換えたほうがいいかもしれない。欠如は母子の分離によって生じる一体性の喪失を表す言葉だ。
生誕とは母との別れだ。生まれ落ちた子は、片割れを失った存在であると同時に、母にその片割れを失わせた存在でもある。欠如を抱えた存在であると同時に、欠如を与えた存在でもある。そのことに子は喪失感を抱き、同時に負い目を感じる。前者は貸しの、後者は借りの感情であり、両者は互いを打ち消し合って収支のバランスを保つ。
それを破るのが、母子の生理が強いる授乳と排泄の始末だ。乳児にとってそれは自らのこうむった欠如を埋めてもらうこと、貸したものを返してもらうことを意味する。それを元からあった借り=母に与えた欠如と足し合わせると、たちまち債務超過に陥り、子はそれを返済しないではいられない衝動に駆られる。母に見せる愛らしい笑顔と寝顔はその返済に充てられたものだ。
生誕後の母子の関係を借りと貸しの関係として理解することによって、愛の起源と贈与交換の起源、柄谷行人のいう交換様式A=互酬(贈与と返礼)の起源を同時にとらえることができる。負い目こそが人間を贈与へと駆り立てるのであり、初めに贈与があって、次にその返礼があるのではない。愛もまた同様だ。
30代 「俺はそんなこと言っていない」と柄谷自身は言いそうだ。
年金 彼は、霊的な力が交換を駆動し、また逆に交換は霊的な力を生むと考えた。これまでの歴史の各時代に支配的だった交換様式をA=互酬(贈与と返礼)、B=服従と保護(略取と再分配)、C=商品交換(貨幣と商品)の3類型に分け、霊的な力はそれぞれの様式によって3つの異なるあらわれ方をすると考える。
私の理解では、この3種の霊的な力は、吉本隆明の想定した3つの幻想領域にそれぞれ属すると考えることができる。すなわち、Aの霊的な力は対幻想に、Bのその力は共同幻想に、そしてCのそれは個人幻想に。3種の交換様式を3種の幻想が駆動し、逆にまたそれぞれの交換様式がそれぞれの幻想を生む。マルクス主義の言葉を使うなら、このイデオロギーの教条に反して、上部構造=幻想が下部構造=交換様式を始動するということだ。
これまで私は、生誕を母胎の楽園からの追放と考えてきた。子はこの世界の荒れ野に放り出された衝撃から母を憎み、やがて母から庇護されることによって憎しみを愛に変えると考えた。それは吉本隆明のいう対幻想の起源を理解するうえで便利なアイデアに思えた。
吉本の想定した3つの幻想領域のうち、おおもとの幻想は対幻想であり、その起源は生誕時にある。母と一体だった胎児は、この世界に生まれ落ちたとき、母と対をなす乳児となる。これが対幻想の始原のあり方だ。
その過程は、貸しと借り、喪失と負い目の関係の発生過程としても考えることができることに気づいたのは、柄谷の交換様式論を読んでからだ。