ニュース日記 891 死の穴と生誕の穴

 

30代フリーター 「関東大震災100年」をめぐる数々の報道は、どんなに医療が進歩し、どんなに生活が向上しても、人は寿命に達する前に不意に死ぬ可能性があることを告げているようだ。

年金生活者 それは私たちの足もとに、いつ落ちてもおかしくない「死の穴」があることを伝えるとともに、その穴を種々の備えでふさぎ、恐怖を和らげようとしているようにも見える。

「死の穴」という言葉は小笠原晋也というラカン派の精神分析家がウェビナーで使っていたので借用した。彼は交際していた女性を殺害した罪で懲役9年の判決を受けて服役した経歴の持ち主だ。「死の穴」を間近で目にした人物と言える。

 小笠原は「死の穴」という言葉を使ってフロイトを批判している。フロイトが報告している症例のひとつに、「馬にかまれる」と怖がって家から出られなくなったハンスという5歳の男児の例がある。フロイトはハンスがエディプスコンプレックスの過程にあると考え、父への敵意が馬に投影されたと分析した。

 これに対し、小笠原はラカンの考えに従って、ハンスの症状は馬が転倒したのを目撃したのがきっかけで生じたもので、エディプスコンプレックスによるものではないと指摘する。つまり、ハンスは転倒した馬を見て感じた「死の穴」への恐怖を、馬にかまれるという恐怖に置き換えることによって、穴をおおい隠し、あたかも穴がないかのように思い込もうとした、と。

30代 だれだって、死からは目をそむけたい。

年金 他方で死は私たちを引きつけてやまない。フロイトは「すべての生命体の目標は死である」と書いている(「快感原則の彼岸」中山元訳)。死を生誕の逆過程と考えるなら、「死の穴」は「生誕の穴」でもあり、母胎の楽園に通じている。

30代 それでも死は怖い。

年金 死の恐怖は生誕時の恐怖に由来する。母胎の楽園からこの世界の荒れ野に追いやられたときの衝撃が引き起こす恐怖だ。生まれる寸前まで楽園だった周囲が荒れ野に一変する。その不意打ちはトラウマを形成し、それが死への恐怖の供給源となる。死ぬことはその衝撃の過程を逆にたどることになるからだ。

 同時に母胎の楽園への帰還を意味する死は天国や極楽や浄土といった甘美な姿をとることがある。それに対し、生まれ落ちたときの荒れ野を再現するのが地獄だ。

 フロイトは「生の欲動」と対をなす「死の欲動」を想定した(「快感原則の彼岸」)。それを母胎の楽園への帰還を求める欲動と考えるなら、それは胎児の段階への退行を目指す欲動と理解することができる。だが、フロイトは人間の発達段階の最初期を乳児期と考え、胎児期を考察の外に置いた。

 その空白に着目して、胎児期のあり方こそ人生を決定づけると指摘したのが吉本隆明だ。それは取り返しのつかない宿命を形成するが、それを克服しようとするのも人間であり、その軌跡が人の生涯を形づくると吉本は考えた。

30代 どんどん成長していく幼い子が生誕時のトラウマを抱えているとは想像もつかない。

年金 朝起きたとき気分が重いのは、この過酷な世界に生まれ落ちたときの衝撃を反復しているからだと私は考えてきた。だが、それを緩和してくれるものがあることに気づいた。この夏から始めた朝の散歩だ。日光を浴びることによって、精神を安定させる神経伝達物質セロトニンが分泌され、体内時計が睡眠から覚醒に切り替わるという効果が朝の散歩にはあるとされている。

 この効果に相当する働きをするのが授乳だ。それは母胎の楽園にいたときの万能感と快感を一時的、部分的にせよ再現する。違うのは、母胎では母子が一体だったのに対し、授乳の場合は両者が分離していることだ。この分離は憎しみの種子であると同時に、愛の種子でもある。

分離を生じさせた生誕は、長じてからの何らかのショッキングな体験をきっかけに、楽園を追放された物語に脚色されて無意識の中に記憶される。それは母に対する憎しみ、ひいては他の他者に対する憎しみを起動する可能性がある。同時に、生誕直後から始まる授乳の経験は憎しみを愛に変える作用をする。

 母子が未分離だった胎内では栄養の補給は母子一体の代謝としてなされていた。一体だから、そこには愛はなかった。もちろん憎しみも。愛も憎しみも、分離のすき間を埋め合わせる幻想として生み出される。授乳のさいに乳児が母に愛を感じるとすれば、もはや母とは一体ではなくなったからだ。

30代 死が生誕の逆過程だというなら、老いは成長の逆過程ということになる。

年金 生誕時の衝撃を授乳が緩和するとすれば、それに相当する過程が、老いにもあると考えることができる。年金、医療、介護を中心とした社会保障などがそれに該当する。

 生誕は不意打ちとして経験される。それが衝撃を増幅する。その逆過程である死もまた不意打ちとして到来する。余命を告げられ、それを受け入れたがん患者も不意打ちを免れることはできない。

 生まれるときも、死ぬときも、その衝撃を緩和することが周りに求められる。それに応じないと罪責感を抱くように人間はできている。