がらがら橋日記 鞆ヶ浦道

 

 少し前、大森から温泉津(ゆのつ)沖泊(おきどまり)まで、石見銀山を支えた「銀のみち」を歩いたことを書いたが、先日大森から鞆ヶ浦(ともがうら)に至るもう一つの銀のみちを歩いた。

 石見銀山がその豊富な埋蔵量を誇ったのは戦国末期から江戸前期にかけてで、世界の総産出量の3分の1を占めた。鞆ヶ浦は温泉や焼き物で有名な温泉津から直線で4キロメートルばかり北東にある。銀の採掘が始まった16世紀半ばはその統治下にあったため、戦国大名大内氏が街道を開いた。ただ、使われたのはわずか30年あまりに過ぎず、毛利氏の支配に移ると、代わって沖泊ルートがその役割を担った。

 企画したOさんの調べによると、鞆ヶ浦道は沖泊道に比べわかりにくい。そのための現地ガイドがいるのだが、13,000円のガイド料がいる。大人数ならまだしも4人でその金額を払う気はだれにもなく、地図を手に歩くことにした。

 出発前、石見銀山ガイドの会に寄って、地図を受け取り話を聞いた。70代前半か、短躯ながら屈強な感じのガイドの男性が言う。わかりにくい。三叉路がいくつもある。本当の銀の道は藪漕ぎしないと通れない。マムシやハチに気をつけろ。サルも出る。しつこければ闘え。たまらずOさんが、

「世界遺産でしょ、どうして整備しないの。」

と言うと、

「わしらも言ってるんですがねえ、あんまり人の通らない道には金をかけたくないんでしょうなあ。」

 そんなにわかりにくい道なのかと嘆くと、

「だいたいガイドがおらんとわからんのですわ。」

と言ってニヤッと笑った。それ以上何も勧めてこないところが商売っ気皆無で好感がもてた。

 熱中症警戒アラート発令下、蒸し暑さに滝の汗をかく。戦国大名が覇権を争い、小説『しろがねの葉』の主要な舞台にもなった要害山山吹城趾にも登った。

 途中螺旋状に崖を這うようにして登る細い道に「鞆ヶ浦5.6キロ」の標示を見たが最後、岐路に何度も出合うのにまったくどっちに進んでいいかわからない。地図を見てもわからず、勘を頼りに歩く。海に向かうのだから下るはずだと選んだ道をしばらく進んだ先にようやく民家を見つけ、聞くも今ひとつわからない。もう少し先に行くと標示があった気がするという言葉を頼りにさらに歩く。確かに標示はあった。「鞆ヶ浦5.6キロ」。どこをどう歩いたものか、山中をぐるぐると回って元に戻ったのである。含み笑いで送り出してくれたガイド氏、我らを謀る狐狸の類いではなかったか、など考えて楽しんでしまった。