ニュース日記 888 冒険散歩

 

30代フリーター やあ、ジイさん。今年の暑さは後期高齢者にはこたえるだろう。

年金生活者 ひと月余り前から毎朝40分ほど近所を散歩して、心身の調子を整えるようにしている。歩き終えて汗と疲れが引いていくときが、たぶん1日のうちでいちばん機嫌のいい時間だ。歩くのをやめると気分が落ち着かなくなりそうな予感がするので、「散歩依存」が始まっているかもしれない。

30代 交通事故にはくれぐれも用心してくれ。

年金 一番気をつけているのが自転車だ。とりわけこちらが気のつかないうちに後ろから接近してきて、すれすれで追い抜いていく自転車には、フィジカルな被害はなくても、メンタルな擦り傷や切り傷を負ってしまう。自転車に乗っている側にとってはありふれたことでも、こちらにとっては不意打ちとなるからだ。

 それを防ぐため、後ろからの自転車の接近があることを常に想定しながら歩くようにしている。想定しておくだけで「不意打ち感」が緩和され、ダメージもかすり傷程度にとどまるからだ。以前ならたちまち痛みと怒りを覚え、しばらくそれを引きずっていたが、それがあまりなくなった。

 災害や戦争を経験したあと、思い出したくないその場面を繰り返し夢に見る外傷神経症の反復強迫について、フロイトは「不意打ち」がその原因であることを指摘している。「こうした夢は、不安を形成しながら刺激を克服することを目指しているのであり、不安が形成されないことが、外傷神経症の原因となっていたのである」(「快感原則の彼岸」中山元訳)

 フロイト自身は「不意打ち」という言葉を使っていないが、「不安が形成されないこと」というのがそれに該当する。「不安」とは心の準備の別名だ。反復強迫は事前にできなかった心の準備を事後にすることを意味する。そうならないために、私は自転車の後ろからの接近を事前に「不安」がり、「不意打ち」を免れるようにしている。

30代 歩くのもひと苦労だな。

年金 行き交う人たちと目を合わさないようにもしている。目が合ったとたんに、相手の眼差しはこちらの両眼を射抜き、心臓に達して突き刺さる。その痛みが、歩く心地よさを台無しにしてしまう。

 人を見ないようにするには努力が要る。放っておくと、つい見てしまう。赤ん坊が近くの人間をじっと見つめるように。そこには見知らぬ他人を警戒する本能的な何かが働いているのを感じる。

 成長するにつれ、他人を見れば見返されること、見ることは時として攻撃と化し、その報復を受けることを知るようになる。見知らぬ他人にはできるだけ眼差しを向けないようにする行儀を身につける。今なお大人になれない私はそれが身につかず、赤の他人を必要もないのについ見てしまう。

30代 たしかに他人の眼差しは気になる。

年金 格闘家の桜庭和志がテレビ番組で、対戦中は相手の目を見ないようにしていると語っていたのを思い出す。「だって、怖いじゃないですか」と、そのわけを打ち明けていた。眼差しというものの威力を彼は身に沁みて知っていたことを示している。 

見ることを写真の撮影にたとえてみる。見る者は対象をとらえるとき、おのれの位置と向き、すなわち特定のアングルを強いられる。その場合、対象が物だと、どんなに見ても、その対象は変わらない。だが、人なら変わる。見る側のアングルが眼差しを通して相手に伝わり、相手を拘束する。すなわち相手は「見られる者」としてピン止めされる。

 それは自由を奪われる不本意な状態だ。それから逃れようとして、見た者を見返す。それにともなってアングルが変わる。その変化が眼差しを通して、初めに見た側に伝わり、その相手を拘束し、「報復」は完了する。

30代 見られるのがうれしいこともある。

年金 眼差しの威力は親しい者どうしでは逆方向に働く。見知らぬ者のあいだでは「警戒」のアングルだったのが「受容」のアングルに変わる。「攻撃」「報復」は「贈与」「返礼」に変わる。

30代 散歩ひとつにも人生を感じる。

年金 毎朝の散歩で感じるのは、クルマ、自転車、歩行者という道路上の3つの階級の存在だ。クルマは自転車を「どけ、どけ」と、車道から歩道に追いやり、歩道に追いやられた自転車は歩行者に「邪魔だ」と圧力をかけて走る。

 そんな「階級闘争」のストレスから逃れるために、私は歩道が歩行者の通る部分と自転車の通る部分とに色やマークで分けられた道路を散歩コースに選んでいる。本来は車道を通行しなければならない自転車に歩道の通行を認め、それにともなう危険を回避するために、歩行者と自転車の分離がはかられている。

 今の散歩コースは歩行者も自転車も通行量がそれほど多くないこともあって、両者の分離の恩恵をストレートに受けられ、神経をとがらせずに歩くことができる。すべての歩道でこのような分離がはかられるか、すべての車道に「自転車専用通行帯(自転車レーン)」が設けられれば、自転車の安全性は格段に高まるはずだ。けれど、残念ながらそれが可能な幅の広い道路は限られている。路上の「階級闘争」は終わらない。