空き家 16 生家の思い出③

 

 10時間以上に及ぶ移動の末、生家にたどり着き、玄関を開けると、豆電球一つの薄暗い土間。その暗い空間は、夏でもひんやりとしていた。「ただいま」と声を掛けると、ほの暗い中から、「もどったかや、ふぁふぁふぁ」と豪快な笑い声を立てながら迎えてくれるのが祖母だった。やはり豆電球一つがぶら下がった部屋で、いつもの鯛のほぐし身入りのちらし寿司が迎えてくれるのだ。

 私にとって珍しかったのが入り口の土間。まず、床が土だったこと。そして、仕切りの向こうにでえんと構えた竈があったこと。泉南ではどこの家にもそんな物はなかった。土で固めたような塊に大きな羽釜が二箇所にはめ込められ、その下に火を入れ、湯を沸かしたりご飯を炊いたりするのだ。祖母が木を焚きつけ、伯母が座って火の守りをしていた。

 伯母というのは、母の長姉で、利発な子だったそうだが、五歳頃に髄膜炎に罹り、半身に麻痺と知的障害が残った。母の実母が他界し、兄である尼崎の伯父も、今は茨城に居る叔母も家を出たので、母が養女に入ったこの家に引き取られたのだ。祖母が私の子守のために泉南にいた時期を除いて、祖母が亡くなるまでこの家に居た。

 部屋は、土間を上がると「なかえ」があり、その奥が「おもて」。その二つの部屋の南側に縁側があり、反対の北側にも二つ部屋があった。「なかえ」は近所の人など馴染みの人を迎えてお茶を飲むのに使ういわゆる居間で、そこに蚕棚が天井まで高く積まれていた。「おもて」は客を迎える部屋、つまり客間で、北側で西寄りの壁に仏壇が置かれ、西側の高いところに神棚があった。反対側の二部屋の土間に近い方の部屋は、家族が食事をする部屋。普段はそこで食べるのだが、私たちが帰省した際の食事はいつも、「なかえ」に用意されていた。その奥のもう一部屋は、祖母と伯母の寝部屋だった。

 もう一つの珍しかったものが屋根。当時はかやぶき屋根だったのだ。竈があるので、当然のことながら煙出しがついている。強い雨が降った際、家の中に吹き込んでくるのにはびっくりした。