ニュース日記 880 交換の起源

 

30代フリーター 柄谷行人が哲学のノーベル賞といわれる「バーグルエン哲学・文化賞」を受賞したというので、朝日新聞が改めて彼の交換様式論を紹介していた。

年金生活者 柄谷は交換様式をA=互酬(贈与と返礼)、B=服従と保護(略取と再分配)、C=商品交換(貨幣と商品)、D=Aの高次元での回復の4類型に分け、これまでの歴史はA、B、Cの順に支配的な交換様式が推移してきたとしている。Dは支配的な交換様式になったことはないが、それは必ず到来すると柄谷は予言する。

 そうした交換様式から観念的、あるいは霊的な力が生まれ、それが政治や宗教、文化など、マルクス主義でいう上部構造を形成すると彼は考える。Aからは「贈与されたら返礼せよ」と命じる霊的な力が生じ、Bからはホッブスが「リヴァイアサン」と名づけた怪物的な力が、そしてCからは貨幣の力、マルクスが「物神」と呼んだ力が生まれる、と。

30代 交換が力を生むとして、人間にそうした交換をさせる力はどこから来るんだ。

年金 柄谷はAについて「たんに人と人の間の同意や約束ではない、何か強制的な“力”がそこにおいて働く」と言う(『力と交換様式』)。これは「強制的な“力”」、すなわち霊的な力が交換を強いると言っているように受け取れる。Cについても「交換」を「可能にする『力』が不可欠」と書いている(同)。なぜなら、マルクスによれば商品交換は共同体と共同体の間、つまり見知らぬ者どうしの間で行われるからだ、と。しかし、Bについては国民に服従を、国家に保護を強いる力が何なのか述べていない。

30代 そこが物足りないところだ。

年金 私の考えを言うと、交換を駆動する力の起源は個体発生的には生誕に、系統発生的には自然からの人間の「離陸」にあると思われる。

 乳児は母の全面的な庇護なしには生き続けることができない。乳児は自分を母胎の楽園からこの世界の荒れ野に追いやった母を憎みながら、他方で母の庇護を得るために、その見返りとして自らの愛らしさを母に与える。それをアメとすれば、泣き声はムチだ。自分を楽園から追い出した母が、自分への庇護を怠るとき、ムチ打たれるのは当然だという前提がそこにある。

 それは一方で、乳児の中に後ろめたさ、負い目を生じさせる。庇護してくれる相手を攻撃することを意味するからだ。だから、乳児は笑みや睡眠を通して自らの愛らしさを懸命に母に与えようとする。後ろめたさ、負い目こそが、人間を贈与へと駆り立てるということができる。贈与と返礼から成る互酬制の起源をそこに見ることができる。

 この過程を母の側から見ると、次のようになる。自分が楽園から追い出したわが子が仕返しをするどころか、笑みを見せ、すやすやと眠り、愛らしさをふんだんに与えてくれる。母はわが子を寄る辺ないこの世界に追いやったことに後ろめたさ、負い目を感じ、子を庇護しないではいられない気持ちに駆り立てられる。

30代 系統発生のほうはどうなんだ。

年金 人間が他の動物と同じように自然と一体化して生きていた人類史の段階を想定すると、人間と自然の関係は胎児と母胎の関係のようだったと考えられる。人間が木の実や動物をとって食べ、排泄する動作は、まだ採集や狩猟とは言えず、母胎と胎児が一体として繰り返す代謝に近い。それが可能だったのは自然の恵みがあり余るほど潤沢だったからだ。

 だが、人口が増えると、その恵みに稀少性が忍び込む。ひとりの人間がひとつの木の実、1匹の動物を手にすることは、他の人間がそれを手にすることを妨げることを意味するようになる。そこに競争関係が生まれる。それまで何もしなくても与えられていた栄養は、自然に働きかけないと得られなくなる。自然が働きかけの対象になれば、人間はそれまで一体化していた自然からおのずと離れていく。胎児が生誕によって、それまで一体だった母胎から離れるように。

 自然の恵みを手にできるかどうかは生死を分けることにつながる。それを手にしたほうの人間は、そのことに後ろめたさ、負い目を感じないではいられなくなる。それが贈与への衝動を生む。贈与と返礼から成る互酬制は、初めに贈与があって、次にそれに対する返礼が続くのではない。贈与は返礼から始まると言わなければならない。

30代 ジイさんの言うとおりだとすれば、柄谷の交換様式論には空洞があるということか。

年金 たとえば交換様式B=服従と保護(略取と再分配)の概念から導き出されるのは、国家の正体は経済だという結論だ。では、なぜ国家は経済の主体になり得たのか。その疑問への答えがそこにはない。それに応答しようとすれば、吉本隆明のように国家を共同の幻想としてとらえ、その幻想の力が国家をBの担い手たらしめたと考えるほかない。

 ただし、柄谷の交換様式論は、吉本の幻想をめぐる考察と矛盾するものではなく、Aは対幻想と、Bは共同幻想と、Cは個人幻想とそれぞれ相補的に対応していると理解することができる。吉本と対立した柄谷はその意味で吉本の達成の継承者と言っていい。