がらがら橋日記 ないなりに

 

 一昨年鳥海山に登って体力が落ちているのを実感して以来、ほぼ毎日トレーニングをしている。体力に応じて山は遊んでくれるので、楽しく登りたければやるしかない。それから一年半、病気やけがはもとより不調を感じることもあまりないので効果はあったのだろうが、慣れたという以上に取り立てて目立った変化はない。バランス運動は毎日同じところでグラグラしているし、柔軟性についても実に変わりがたいものだと知った。元々が硬い上に肩、腰、首が満足に回らない状態で始めたからでもあるが、一年半経っても相変わらず硬い。才能がないとはこういうことをいうのだ、と思う。人と同じことをやって異常に伸びるのがプロなのだそうだが、確かに上達するスピードや量が異常だから抜きん出るのであって、それは少数の才能ある人間に限られる。とはいえ、才能がないことは止めることの理由にはならない。どれだけ時間がかかろうと、どれだけ歩みがのろかろうと続けていれば少なくとも現状維持にはなる。柔軟運動に関しては、体がそれに合わせて変化するまでに年単位の時間がかかると言う人もあるので、それを楽しみに気長に続けようと思う。

 選書の能力も、過信しないようにと自分に言い聞かせている。温泉旅館主の選書眼と配置の妙に感服してからというもの、真似したくてたまらないのだが、ここは沸き立つ妄想を押さえつけ静まるのを待たねばならない。ぼくが多少なりとも持っているのは、主の選書眼を感じ取る能力であって、選書の能力とは異なるものだ。真似することに時間と金をかけるくらいなら、何度でも泊まりに行くことにしよう。そうすれば宿泊料の一部は館主の選書に使われ、次の宿泊客の喜びになる。その方がよっぽど金が生きる。

 去年やらかした器選びの失敗も、この才能のあるなしの読み違えだった。これぞという一品に出合うドラマを夢想して勇躍窯元巡りに向かったが、巡り始め早々に頭がぼんやりしてきて、二軒目には己の愚かしい勘違いに気づいたのだった。たくさんの器の中から選り分けるなんて才能は、ぼくにはなかった。おかげでちょっと遠回りしたけれど、いつも行ってる器屋さんで求めるのがいちばんよいという結論を得た。

 よい器に出合おうと思ったら、才能ある人が選んだ中から見つければよい。自分の扱う器に心底愛情を注いでいる店主の選んだ器は、やっぱりお気に入りになっていく。そういう人を見つける方が器を見つけるよりずっと容易い。愛情深さを感じ取る能力というのは、誰もが生まれてからずっとトレーニングを積んでいると思うのだ。