ニュース日記 861 柄谷行人と吉本隆明

 

30代フリーター 柄谷行人が去年出した新著についてこんなことを言っている。「『力と交換様式』は文芸批評。古今東西、いろんなものを読んで考えた。全ては文学といえば文学ですから」(1月1日朝日新聞デジタル)

年金生活者 吉本隆明が「言語にとって美とはなにか」も「心的現象論」も「共同幻想論」も文芸批評として位置づけていたことを思い出させる。ふたりは長く対立し続けたが、思想的には最も近いかもしれない。

 柄谷は「力と交換様式」で、交換によって生まれる霊的な力の重要性を強調している。その力が人を駆り立て、社会を動かす、と。彼によれば、交換はA(互酬=贈与と返礼)、B(服従と保護=略取と再分配)、C(商品交換=貨幣と商品)、D(Aの高次元での回復)の各様式に分かれる。それぞれの時代に支配的な様式はA、B、Cの順に推移し、Dはいまだかつて支配的になったことはない。霊的な力はそれぞれの様式に応じて異なったあらわれ方をする。

 歴史の考察に「霊的な力」という宗教的な概念を導入するのは非科学的、非論理的に見える。しかし、なんと名づけようと、物理的な力とは明らかに異なる力が交換において発現しているのは否定しようがない。カネに振り回される人間と社会の姿がそれを示している。

30代 柄谷はその力の解明に向かった。

年金 それを実行するには、たとえば商品を物質としてのみ、貨幣を交換や蓄財の手段としてのみ扱うことによっては不可能だ。言い換えれば対象をフィジカルな力だけを持つもの、人間をそれのみに左右される存在として扱うことによっては不可能だということだ。

 文学は木の葉のそよぎひとつに人間を動かす力を見ることができる。それは風の物理的な力とも、植物の生物としての力とも、樹木の持つ経済的な力とも異なる。それはフィジカルな存在が人間と交わるとき、そこに生じる精神的な力、「霊的な力」にほかならない。物理学も、生物学も、経済学もそれを描いたり、分析したりすることはできないが、文学はそれを描くことができるし、文芸批評はそれを解き明かすことができる。

30代 吉本隆明のほうはどうなんだ。

年金 吉本は正岡子規の次の句を「優れた芸術作品」として紹介している(「言語論要綱」、『SIGHT』2006年夏号)。「鶏頭の十四五本もありぬべし」。「鶏頭」を植物としてだけ、「十四五本も」を数としてだけ、「ありぬべし」を「あるだろうな」という意味としてだけ受け取れば、こんな句のどこがいいんだということになる。だが、吉本は「『ありぬべし』という主観性に至る表現」によって、読者は「作者子規はどんな内心の思いをこめていたのだろうかと、さまざまな想像を刺激される」と指摘する。そこに働いているのはフィジカルな力とは異なる「霊的な力」だ。

30代 長年の対立がむしろふたりを近づけたのかもしれない。

年金 両者の共通点のひとつに、西洋思想の伝統である心身二元論、霊肉二元論を超えようとする発想がある。ふたりがともに批判している史的唯物論は社会を土台と上部構造に分ける心身二元論の一種だ。

 柄谷は社会の土台を生産様式でなく交換様式として見ることによって二元論を克服しようとしている。生産様式は上部構造を決めはするものの、次元が異なるので、間接的にしかできない。これに対し、交換はそれ自体が霊的な力であり、その力は上部構造に分類されてきたもののひとつだ。

 吉本の二元論克服の試みは「心的現象論」で顕著だ。「まず、生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている」として、それを「原生的疎外」と呼んだ。同じことを「生命体が、生命体という存在であるということ自体から、いいかえれば存在するということ自体によって存在が影響されるという心的な現象」とも言っている。

30代 ふたりは一元論を目指しているのか。

年金 そう言えると同時に、その思考はどちらも「三元論」として展開されている。吉本の「三元」は対幻想、共同幻想、個人幻想であり、柄谷の場合は交換様式のA、B、Cがそれに当たる。

吉本の幻想論を画期的なものにしているのは対幻想という概念を導入したことだと指摘したのは三浦雅士だ。集団と個人、共同性と個といった二元論的な考えは昔からあった。その意味では共同幻想と個人幻想という概念は目新しいものではない。吉本の独創性はそのどちらにも属さない性の領域を「対」の世界と考え、それと他のふたつの領域を結びつける構造を明らかにしたことにある。

柄谷の場合はこの第3の領域に相当するものとして交換様式A(互酬=贈与と返礼)が考えられている。「互酬」「贈与と返礼」という言葉から直感できるように、それは「対」を前提にしている。これに対し、主として国家に担われる交換様式B(服従と保護=略取と再分配)は「共同」なしには成り立たない。そしてC(商品交換=貨幣と商品)はその担い手として自由な市場における「個人」を想定している。