ニュース日記 854 梨泰院で起きたこと

 

30代フリーター やあ、ジイさん。150人以上が死亡したソウル・梨泰院の惨事は、ハロウィーンを楽しみに集まった若者たちを地獄に突き落とした。

年金生活者 近年これほど悲しみを誘われた事故はない。集まって楽しみたいという若者のピュアな欲望を利用して何ものかが仕組んだ惨劇、といったようなたとえ方をしてみたくなる。

 自分の若いときを振り返ると、何を目的とするでもなく、とにかく集まること自体が楽しみだったことを思い出す。コロナはその楽しみを封じた。それは人間の基本的な欲望を抑圧することを意味した。

 集まることの代わりをしたのがオンラインだった。だが、ウェブ世界はリアルではないぶん必ず不全感を残す。それが不快感を誘うことさえある。

 こうしてリアルな集まり、リアルな接触への欲望は耐えがたいまでに高まる。それが「集まり過ぎ」「接触し過ぎ」という事態につながった。若者たちは梨泰院の街の中でもより人が集まっているところ、より密になったところへと、なかば無意識のうちに引き寄せられていったのではないか。そう考えないと、なぜあの狭い坂道にあれだけ大勢の人数が密集してしまったのか理解しがたい。

30代 集まること、体を接触させることを封じられると、心に変調をきたす。文部科学省によると、2020年度に全国の国公私立小学校、中学校、高校から報告があった児童生徒の自殺は415人で、前年度より31%も増加し、調査を開始した1974年以降で最多だった。同省の担当者は「コロナ禍による家庭や学校の環境変化が複雑に絡み合い、子どもの心身に悪影響を与えていることがうかがえる」と語っている(2021年10月14日東京新聞WEB版)

年金 「集まること」の代表的なものが祭りであり、いまよく使われる言葉を借りるなら「フェス」だ。それは一時的にせよ個人と集団が一体化した感覚を味わわせてくれる。この一体化の原型は母と子が一体化していた母胎の楽園に求めることができる。生誕によってその楽園を追われ、この世界の荒れ野で生きて行かなければならなくなった人間は、それまで楽園で浸っていた万能感と快感を奪われたと感じる。それを取り戻すことを無意識の願望として生涯にわたって持ち続ける。

 現実にはかなわないこの願望は代わりに性や恋愛を対象とするようになる。祭りもそうした代替の対象の一種であり、ハロウィーンはそのひとつということができる。

30代 同じハロウィーンでも東京・渋谷は混乱しなかった。

年金 日韓のコロナ対策の差が反映している。韓国では、スーパーや飲食店の営業時間の制限、大型イベントの人数制限、遊興施設の運営停止、マスクの着用がいずれも義務化され、違反者には過料が課せられた。つまり政府による要請にとどまらず、強制が国民に対してなされた。そのため、それが解かれたときの反動も大きかった。

 これに対し、日本では営業時間や人数の制限、マスクの着用はいずれも要請にとどまっている。にもかかわらず、国民はそれを進んで受け入れ、マスクに至っては政府が屋外での着用は不要と呼びかけても外さないでいる。強制のないぶん、その反動も少なく、渋谷では奪われた楽しみを一気に取り戻そうとして過剰に密集することもなかった。

30代 日本国民が強制なしに自らの行動を変えたのは、同調圧力が働いたのが一因とされている。

年金 韓国が強制に頼らざるを得なかったのは、日本ほど同調圧力が働かない社会であることを示している。

 同調圧力が働くのは、他人に迷惑をかけたくない、言い換えれば負い目を感じたくないという動機に根ざしている。何かをもらったらお返しをしないといけない、借りは返さないと気が済まない、といった心性だ。これをマスクに当てはめるなら、相手がマスクをしてコロナをうつさないようにする努力をしているのに、自分が何もしないのは相手に借りをつくることになるから、マスクをして借りを返さなければいけない、という心性ということになる。これは昔の氏族社会で支配的だった互酬制のメンタリティーにほかならない。

 柄谷行人は贈与と返礼からなる互酬を交換様式のひとつととらえ、交換様式Aと名づけた。そしてAに続いて、国家が強制する交換様式B(再分配)、自由な市場での交換様式C(商品交換)が成立すると考えた。Aは国家が成立する以前の氏族社会で支配的だった交換様式であり、日本では縄文時代がその時期にあたる。

30代 交換様式Aが支配的な社会が存在したのは日本だけではないだろう。

年金 池田信夫は縄文時代が1万年も続いたために、国家の成立後もその文化的な遺伝子が継承されて今に至っているという見方をしている(「統一教会騒動で家畜化する日本人」、10月15日アゴラチャンネル)。これは傾聴に値する。互酬制が支配的な社会では国家による強制的な再分配は不要であり、その時代のメンタリティーがいまなお維持されているとすれば、政府による強制がなくても、同調圧力によって行動制限、行動変容が生じ得る。そこでは強制は嫌われる。