がらがら橋日記 種まきとビル・エヴァンス

 

 10月半ばを過ぎた辺りから収穫が始まった。8月の終わりに言われるまままいた種が、ふた月ほどで次々実り始めた。Mさんに出会うまで自分が野菜を作るなどつゆほども思っていなかった。今は家庭菜園がちょっとしたブームだから、珍しくもない展開なのだろうが、それ以前と以後を画すいろんな変化を感じている。

 まず、スーパーに行く頻度が半分以下に減った。それまでほぼ毎日通い、退職後の楽しみの一つとまで意識していたのに、だ。何を作るか決め、それに必要な食材を買うとき、無駄なく生かせる買い物ができたか、思い切った贅沢がそれに見合った味をもたらしたか、安い物に手を出しただけのお得感が得られたか、そんな自問を繰り返すことが、家事を上達させると考えていた。それが変わった。収穫した物を日々食べ、さらにそれに飽きが来ないためにはどう料理したらよいのかと考えるのだ。これまたずいぶん小さい変化だことよと笑われそうだが、料理のできあがりから食材を求めるのと、食材からできあがりを構想するのとは思考の順序が逆なのである。日々料理を作る人は、その両方を当たり前のこととして操るのだろうけど、長い間食事を妻に任せっきりだったぼくにとっては、まだ蒙が啓かれていく途上だ。

 細かいことついでに食費を見てみると、スーパーに行かないぶんだけ約3割支出が減った。畑で作るのにもお金がかかるから、単純に節約になったとは言えないのだが、自分で生産して自分で消費するのだから、流通にかかる諸エネルギーの節約にはなっているし、わずかながら家計も助かる。

 自分で育てた野菜は格別、とはどの教本の巻頭言にも登場するのだけど、その日取ってきた野菜を鍋や小鉢の中に見つけて口に運ぶとき、食材が繰り出す味わいの奥行きが、播種から共有した時間のぶんだけ増しているような気がする。

 朝からカラッと晴れた日は、畑でちょっと時間のかかることをしたくなる。バックパックに手袋など詰めていると、山に行くときみたいな気持ちになった。ラジオを聞きながら蕪の種を播くことを思いついたら、もっと気が逸った。

 日に光る草の上にラジオを置いた。オンブバッタが跳ねた。FMを流し、畝と溝をこしらえ、蕪の種を播く。胡麻が巨大に見えるような微小な種なので、息を詰めて一粒ずつ落としていたら、ラジオからビル・エヴァンスが流れてきた。まるで蕪の種が指となってふっくらした土を弾き「レッツ・ゴー・バック・トゥ・ザ・ワルツ」を弾いてるみたいだった。