ニュース日記 836 広がる「生権力」

 

30代フリーター やあ、ジイさん。朝日新聞が「ビッグテック 膨張する権力」と題したシリーズの1回として、グーグルやメタといった巨大IT企業(ビッグテック)が利用者ひとりひとりから集めた膨大なデータ、いわゆる「ビッグデータ」をもとに個々の利用者の関心の傾向をつかみ、それに応じた広告を個人に狙いを定めて出すシステムを紹介していた(6月15日朝刊)。

年金生活者 フーコーが生きていたら、自らが「生権力」と名づけた権力の純化された姿をそこに見るかもしれない。

30代 フーコーの権力観をおさらいしておくと、彼は近代以前の権力が逆らう者を殺す権力だったのに対し、近代以降の権力は人びとを生かして管理する権力と考え、それを「生権力」と呼んだ。それはふた通りのあらわれ方をする。ひとつはひとりひとりの身体に働きかけ、規律に従うよう訓練する。軍隊や工場や学校での訓練がその典型だ。もうひとつは、統計的なデータなどをもとに集団に働きかけ、人口や健康をコントロールする。

年金 ビッグテックを介してひとりひとりのニーズに合った広告を出すシステムは、生権力のふたつのあらわれ方のうち、個人に対する訓練に該当する。軍隊や工場や学校だと、逆らう者を殺しはしないものの懲罰を与えることによって従わせるので、そこに前近代性の残滓を見ることができる。これに対し、「ターゲティング広告」と呼ばれるビッグテックを介した広告は、そうした懲罰を必要としない。代わりに便利のよさが利用者を進んで従わせるように作用する。

30代 集団に働きかけるほうはどうなんだ。

年金 記事ではふれられていないが、ビッグテックがもたらしたもうひとつの大きな変化はビッグデータの活用によるかつてない精密なマーケティングを可能にしたことだ。新たな需要を創出し、消費の動向を方向づけるその作用は、集団を対象に人口や健康を制御する「生権力」のもうひとつの発現形態に該当する。人口や健康の制御が公衆衛生などの名のもとに、逆らう者を罰する仕組みをともなっているのに対して、ビッグデータによるマーケティングは消費者を自発的に従わせる方法をとる。ここにも生権力の純化を見ることができ、「超生権力」と呼びたい誘惑にかられる。

30代 再犯を防ぐために刑罰の目的を「懲らしめ」から「立ち直り」に転換する刑法改正が成立したのも「生権力」の広がりを示しているように見える。

年金 刑務所を主舞台とした矯正行政はおそらく権力の前近代的な側面が最も多く残っている領域のひとつと推測される。今回の刑法改正は、私たちの社会全体で生権力の支配が強まっていることを示している。

 それをあらわにしたのが新型コロナウイルスだ。マスク着用をはじめひとりひとりを規律に従う従順な存在に仕立てる一方、ワクチン接種の推進で集団全体の健康をコントロールしようとした。

 生権力は私たちを助けてくれるので、進んで従おうという気が起きる。しかし、それによって自由を制約されることもたしかで、ときにはあらがいたくもなる。

 前近代の権力は殺す権力なので、それにあらがうのは命がけとなるが、生権力への反抗にはそこまでの必要はない。それは私たちの日常を拘束する権力なので、日常の動作による反抗が可能となる。

30代 ジイさんも反抗しているのか。

年金 コロナについて言うなら、マスクをできるだけしないとか、検査で陽性と判定されて隔離されることのないように、少しくらい風邪のような症状があっても医療機関にはかからないようにするとか、といったことがある。生権力は生かすことと管理することの両面を持つ権力なので、現実には反抗一辺倒も、また従属一辺倒も不可能と言っていい。私も人混みではマスクを着ける。従属と反抗を自分に最適に塩梅することが肝心なのだと思う。

30代 なぜ生権力の支配が広がったんだ。

年金 「人命第一」の考えが広がったからだ。この考えが規範のように語られるようになったのは、それほど古いことではない。戦時中にまでさかのぼらなくても、団塊の世代の私たちが若かったころは「革命に命をかける」という言い方が奇異には聞こえなかったし、三島由紀夫は命よりも価値のあるものが存在すると強調していた。

 現在は「人命第一」に反する言動はタブーのように排除される。それを言葉だけでなく、実行に移せるだけの経済的な豊かさを私たちの社会が高度経済成長を経て獲得したからだ。

 医師の志望者が増え、医学部が高偏差値化したのは、「人命第一」の考えが社会のすみずみまで行き渡ったことが背景にある。医師は「人命第一」現実化するために欠かせない存在になった。そのことが医師に権力を与えた。典型的な「生権力」だ。

 だが、ヒトは死ぬことによって次の世代を誕生させるようにプログラムされている。そうである以上、だれかを(たとえば家族を)、あるいは何かを(たとえば国家を)生かすために死ぬという考え方は、「人命第一」の社会でも消えることはない。ただし、それはかつてのように社会の「本流」になることはない。