がらがら橋日記 近代文学五十選 2
小説を読むのに時を選ぶ必要なんてないのだけど、「近代文学五十選」に挙がっているような重厚な作品にはおいそれと手が出せなかった。そんなのただの言い訳だとはわかっているが、勤めてからはいつも頭の片隅にひっかかっていることがあって、どっぷりと作品に浸るなんてできなかった。それだってそんな気がしただけなのだろうが、なかなか長編を集中して読むだけの余裕もなく、またひょいと時間ができたとしても、そんなときはほかの優先事項がしゃしゃり出て、「五十選」の出る幕はなかった。だが消えたわけではなかった。それが証拠に、退職したら再び表に出てきた。
高校時代は、読んだからには影響されないといけない気がして、主人公とともに悩んでみたり、登場人物の思想を友達にうろ覚えで語ってみたりしたが、さすがにこの年になるとそんな力みは消えた。読めば理解できるなんて幻想だし、そもそも道楽の読書だ。わかろうがわかるまいがどっちでもいい。読了と同時にきれいさっぱり忘れたところで、だから無意味、とも思わない。読んでいると、ストーリーとは別に文や言葉から引き出される記憶があるもので、それだけでもよかったがや、と思う。どんな不届きな読者も包み込むように迎えてくれるのが「近代文学五十選」なのだなと今は思う。
トルストイは、『アンナ・カレーニナ』が選ばれているのだが、やっぱり『戦争と平和』を一度は読んでおきたいと思って手にした。ついていけなくなったら今の自分には合わなかったというだけのことだ。ところが読み始めたら止まらなくなった。世界中で読み継がれる名作というのは、まずもっておもしろいのだと再認識した。光文社の古典新訳文庫が昨秋完結したばかりで、タイミングにも恵まれていた。読了すると続けて同じ訳者の『アンナ・カレーニナ』を読んだ。半月以上トルストイを読み継いだ。まずそんな時間に恵まれたことがうれしかった。仕事していたって読めたかもしれないのだが、ずっとそんな気になれなかったのだから、自分にはそれだけの容量がなかったということなんだろう。
ロシアがウクライナに侵攻してからというもの、ニュースが気になってならない。『戦争と平和』は、歴史理論にも多くのページが割かれているのだが、中でトルストイは、戦争のような歴史的事件は個人に原因が帰せられるようなものではないと繰り返し述べている。「プーチンのプーチンによる…」などと言われて、ついそんなイメージを抱きがちだけど、トルストイならどう描くのだろうとよく考える。