ニュース日記 822 無力という力

 

30代フリーター やあ、ジイさん。ウクライナに侵攻したロシア軍の苦戦が伝えられている。ウクライナ軍の士気の高さ、ロシア軍の補給の難航と兵士の士気の低さなどが指摘されている。

年金生活者 ロシアの兵士たちが自らの任務に疑問、迷いを感じていることがうかがえる。ロシア国内での反戦デモがそれを示している。ウクライナがロシアに攻めてきたわけでも、攻めてきそうになったわけでもないのに、いきなり前線に駆り出された兵士の多くは何のための戦争なのかわからないまま戦闘を強いられ、こんなことをしていいのかと心中ひそかに葛藤しているに違いない。それで士気があがるわけがない。けんかを売られて憤るウクライナ兵士とは対照的な心の状態にあるはずだ。

 そんなロシア兵士に、できることなら日本国憲法9条の条文をテキストか音声で伝えられたらと思う。それがこの戦争をすぐに止める力にはならないとしても、「あなた方の疑問も迷いも葛藤も正当なものであり、決して後ろめたいものではない」というメッセージを伝えることができる。それがやがてロシア国民の反戦・厭戦意識とともに、プーチンの侵略戦争をやめさせる力のひとつになり得る。

30代 右派からは「この期に及んでまだお花畑なことを言ってるのか」と言われそうだ。

年金 憲法9条は赤ん坊に似ている。赤ん坊は争う気も、その力もない。人間の理想状態を体現したその無垢さ、無力さを前にしたとき、ふだん粗暴な人間も「この子だけは傷つけてはいけない」と、むしろ守ろうとするだろう。でも、まれに危害を加えようとする者はいる。それを阻んでいるのが親や周りの大人の力だ。

 憲法9条はそんな赤ん坊のような無垢さ、無力さによって、各国の日本への攻撃の意思を溶かしてきた。そしてまれな例外に備え、自衛隊と日米同盟がその無力さを補ってきた。赤ん坊を親や周りの大人が守るように。

 戦後の日本が他国を攻撃しなかっただけでなく、攻撃を受けることもなかった理由の骨格を、こうした9条のあり方に見ることができる。言い換えれば、戦後日本の平和は9条だけが守ったのでも、自衛隊や日米同盟だけが守ったのでもない。

30代 志位和夫が「憲法9条をウクライナ問題と関係させて論ずるならば、仮にプーチン氏のようなリーダーが選ばれても、他国への侵略ができないようにするための条項が、憲法9条なのです」とツイートしていた。共産党も9条では「自国への侵略」を防げないことをついに認めた、といったような批判をネット上で見かけた。

年金 もしロシアの憲法に9条に相当する条項があったら、プーチンはウクライナを侵略できなかっただろうという想定が論理的には成り立つ。では、9条がロシアにではなくウクライナにあったら、どうなるだろう。戦力を保持せず、交戦権も認められていないから、ロシアはウクライナ側の抵抗をほとんど受けることなく無血でウクライナを侵略する可能性が想定される。

 だが、現に9条を持つ日本国民の大多数はこの想定に違和感を覚えるに違いない。日本は9条を持ってから1度も他国から攻められたことがないからだ。

 他国からの侵略を阻んでいるのはさっき赤ん坊をたとえに言ったとおり、9条の無垢さ、無力さと、それとセットになった自衛隊と日米同盟の存在だ。9条のうたう非戦・非武装の「理想」は、その無垢さ、無力さ自体が他国からの攻撃を阻むバリアになっている。と同時に、その「理想」は「現実」の力に支えられて国家の中に現存することができている。

 だから、ウクライナが9条に相当するものを持っていたら、という想定には、自衛隊に相当する防衛組織を持ち、日米同盟に相当するシステム、すなわちNATOに加盟するという想定がセットでついて回ることになる。そんなウクライナをロシアは簡単には侵略できないはずだ。

30代 9条は現実からかけ離れており、そんな面倒なことをしてまでしがみつくのは危険だ、といったような主張が昔からある。

年金 9条の非戦・非武装の理念は、人類の究極の理想としてはだれも反対できないはずだ。現実を無視した条項だから変えるべきだと考える改憲派も、「究極の理想」となると反対する根拠を示せないだろう。だが、「理想」である限り、単独で「現実」の中に存在する場所を持つことができない。自衛隊と日米同盟というつっかえ棒を国民が求めたゆえんだ。

 人間とその社会は「理想」なしにはやっていけないようにできている。それを失ったとき、どこへ向かっていいのかわからなくなり、自分自身を見失う。かつてアメリカに挑んで一敗地に塗れた戦後の日本国民にとって、憲法9条がその種の理想となった。

 中沢新一は9条を「修道院みたいなもの」と語っている(太田光との共著『憲法九条を世界遺産に』)。「修道院みたいな狭く限られた場所であっても、人間の現実ということを考えればとても無理じゃないかと思えるような夢や理想を、まがりなりにも実現させてみせましょう、という人たちがいると、その周りの社会まで変わってきます」(同)