がらがら橋日記 陽だまりにて

 

 このところ少し作りが雑になってきた気はするが、朝ドラ「カムカムエブリバディ」がおもしろくて欠かさず見ている。ちょっとでも退屈するとどんなドラマでもすぐ見なくなるので、ここまで続くのは自分としてはめずらしい。三代にわたる主人公がちょうど祖母、母、自分とそれぞれ同世代なので、エピソードに共振しやすく、しばしば、引き出される記憶がドラマとともに目の前に広がる。

 少し前、小学生の主人公が英会話とか宿題とか何をやっても続かず、なんで自分はこうなんだろう、と情けなさに八つ当たりしたり涙を流したりする場面があった。笑ってしまった。自分もまったくこの通りだったからだ。次々と思いついてやってみるものの、文字通り三日続けばいい方で、瞬く間に、飽きる、投げ出す、あきらめる。あとは有形無形の廃墟を前に自己嫌悪に陥ることの繰り返し。親にしてみれば、ねだりにねだられて出費を強いられたものもあるので、やめました、ほうそうか、で済ますわけにいかず、都度根気がない、根性がない、となじることになる。こっちは腹を立てながらもその通りだと同時に思っているので、叱られたりからかわれたりした一つ一つが自分の中に蓄積されて、けっこうな負い目になった。

 それなりに経験を積んだ今ならば、三日坊主も非難には当たらない、むしろ大いに思いつきに走るべし、と言える。自分が何に向いているかなど、簡単にわかるはずないのだ。あれこれ手当たり次第やっているうちに、自分にとって何が大切なのか選別できるようになる。ほんとうに大切なものは自ずと続く。目も綾なあれこれをつかまえては後悔するを繰り返すうちに少しずつそれがわかっていくのだと思う。

 もちろんこの年になっても必要を見極める精度なんてたかが知れていて、相変わらずぐらぐらしている。実家をどうするかなんて考え始めるときりがない。毎日郵便受けに入っている不動産、リフォーム、新築チラシなぞ読もうものなら知らず知らず攪乱される。

 二月も終わりが近いというのに、雪雲に覆われた寒い日がしばらく続いた。ようやく寒気が抜けて、朝から青空が広がった日、ぼくが一日の四分の一を過ごす半畳のスペースがちょうど陽だまりになった。あまりの心地よさに、これはたまたまここにいるということなんだろうか、ついにここにたどり着いたということなんだろうか、なんてぼんやり考えたりした。ほんとうに大切なものは、きっとこんな素っ気ないものなんだろうなと思った。

 つましく暮らす人たちの大切なものを力ずくで奪う論理なんて絶対に虚妄だ。