がらがら橋日記 自転車1

 ここ数年来の最も高額の買い物は、自転車だ。これは、仕事で何とも腹の虫が治まらぬ目に遭ったことが動機となって購入した。自棄買いである。本来なら消費者としての抑制が働いて、手頃なグレードのものを選ぶのだが、この時はそれでは痛みに釣り合わぬと思われ、自分には十分すぎるそれを選んだものである。見ようによっては、痛みを別の痛みで紛らわせたようなものなのだが、それで我慢が利いたところはある。

 高価とはいっても、自転車の世界、上を見ればきりがない。桁が一つ違う外国製の逸品を自慢する同僚がおり、職場に乗ってきた場合は、自転車小屋などもってのほかだと特別扱いを当然視していた。ぼくの場合は、あくまで素人が手を出せる、自転車小屋で十分の範囲内なのだが、結果オーライとはこのことで、その快適さを愛するがあまり、車にはほとんど乗らなくなってしまった。

 通勤や買い物で自転車に乗って風を受けていると、折に触れて思い出されるのがカブでの旅だ。スピードと感覚受容体の感度は反比例するのか、車では感じることのできない発見があったことがふと蘇るのだ。たたずまいとか人の表情とか、そこここから生じる風のようなもの。

 そうなると夢想せずにはいられなくなるのが、自転車での遠出である。古い町並みだの点在する史跡だの、駐車場やら通行規制やらに煩わされることなく気楽に動け、しかも距離を稼げるという点で自転車に勝るものはない。そんなことをつらつらと考えていると、夢想が夢想を呼び、日本一周まで膨らんでいく。だが膨らむだけ膨らむと、しぼませる気づきも出てくるもので、日本の道路事情、荷物、パンク、尻の皮、天気、気力体力の萎え、などなど、当然直面するであろう課題がブレーキをかけるのだ。カブで出かけていた四十年前は、未経験の特典で否定的な想像など寄せ付けなかったのだが、さすがに還暦が過ぎるとそういうこともきちんと考えておかないといけない。

 あれこれ検討した結果、今の自分にとっての最善は、車に自転車を積んでの移動だという結論に至る。どこか楽をしている恨みはあるが、無理も適当なところで収めないと楽しみでなくなってしまう。

 さて、あとはタイミングなのだが、家族の不幸にコロナと猛暑でこれが最も難しかった。ずるずると時を送るうちに夢想も鮮度を失い、ぼんやりと遠くに霞むばかりになっていく。でも、きっかけは予期せぬところからやってくるもので、コロナの感染者が減少に転じ、暑さもやわらいだころ一通の手紙が届いた。