がらがら橋日記 カブ12 フェリー
札幌には、大学の友人が帰省しており、しばらくやっかいになった。あとは、小樽からフェリーに乗れば帰ったも同然なので、すっかり気が緩んでしまった。たまたま同じ島根の友人もバイクで一人旅をしており、連絡など一切取っていなかったのにもかかわらず、札幌の友人宅で鉢合わせした。ケータイもSNSもないときのこと、偶然の妙味に二人で驚喜した。迎える友人宅は、負担が二倍になったのだが。
高橋和巳の小説に、主人公の実家を友人二人が遠方から訪ねてくる場面がある。三人は、しばらく革命について討論をするのだが、その間主人公の母親は、学生たちを精一杯もてなそうとすき焼きの準備をする。話を終えた二人は、主人公に別れを告げて帰り支度を始める。察した母親はおろおろしながら、でも懸命に引き留める。「もう煮えましたから…」。だが、二人はさっさと帰っていくのである。極貧の暮らしの中ですき焼きの用意をすることが何を意味するのか、想像しようともしない友人たちや彼らが抱く志に主人公は不信感を抱くのだった。
この印象的な場面を、思想は脇に置いて、ぼくは極めて道徳的に読んだ。母親が気の毒でならなかったのである。出されたものは食べ尽くさねばならないと反射的に思ってしまうのは、何もこの小説を読んでからではないのだが、補強されたことは間違いない。
友人宅に逗留する間、彼の母親の心づくしを無駄にすることはなかったが、逆に底なし沼のような食欲を有する男たちに日々せっつかれ、どれほどくたびれられたことか、思い出すと赤面を禁じ得ない。札幌と言えばビールだ、ジンギスカンだ、とすっかり出来上がって帰ることも一度ならず。かなり恥ずかしい。
フェリーの出航日が来、札幌を後にした。小樽から舞鶴まで二泊三日の船旅は、退屈との戦いだった。ただ乗っていれば山陰まで運んでくれるのだからこれほど楽なことはないのだが、同時にこれほどつらいこともない。二等船室とデッキを幾度行き来しても見えるものは海と横になったまま押し黙っている人々の姿。カラオケやゲームコーナがあるらしいがそれで気分が晴れるはずもない。たまらず売店でこれまで買ったこともない文芸雑誌を求め、読むことにした。まったく興味の湧かない小説もありはしたが、ひととき物語の世界に没入できた。その間だけは、退屈に苦しむことはなかったのである。外出する際には、常に一冊の本を持つのが習慣になったのもこのときからだ。
約一月の旅を終えて帰宅。母はぼくの姿を見て卒倒しそうになった。気の緩みから一週間以上も連絡を怠っていた。