専業ババ奮闘記その2 コロナ禍の中で⑤

 

 緊急事態宣言(一回目)が解除され、感染が少し収まってきた。合気道の稽古は、六月最終土曜日から、マスクをつけ、一人稽古という形で再開することになった。

 そんな六月も終盤に差し掛かった日、娘が美容室に行くので預かってくれと宗矢を連れてきた。乳母車に乗せて歩くと、宗矢はすぐに眠った。一時間近く歩き、あと少しで家というところで泣き出した。急いで家に帰り、抱っこして家の外に出る。木の葉が動くのを見て泣き止んだ。寛大も実歩も、抱いて家の周りを歩きながら、風にそよぐ葉を見せていたっけ。

 やがて、娘が帰ってきて、「広末涼子みたいって言われた」とご機嫌。義母は昼食を摂りながら、畳の上を転がる宗矢に、「しゅうちゃん」と声を掛ける。最初は、「名前はなんだったかいね」と、なかなか覚えられなかったのが、「ゆうちゃん」になり、言う度に、「しゅうちゃんですよ」と繰り返すうちに、時々は間違えるものの脳に刻み込まれたようだ。

 寛大が産まれた時は、まだ義母もデイサービスに通っておらず、杖だけで歩いていたし、物忘れもさほどひどくはなかった。私はまだ嘱託の仕事に就いていて、家で産後の身体を休めている娘や寛大の世話を十分することができずにいた。「栄理ちゃん、抱っこしてるから、その間に食べなさいって、お祖母ちゃんが言ってくれて、随分助かったよ。お父さんよりお祖母ちゃんによく助けてもらったわ」と、娘が言っていた。

 実歩が産まれた頃から義母はデイサービスに通い出したが、それでも、「ちょっと抱かせて」と言って腕を広げたし、「抱いちょくけん、用事しない」と実歩を預かってもくれた。「東京に出て、大学の先生の家でお手伝いさんしちょってね。先生の子どもさんの子守もしたよ」と、娘時代の話を耳にたこができるほど聞かされた。近所の小さい子の面倒もよくみてあげたとのことだ。我が子が小さい時、働きに出る私に代わって、長女は二歳(それまでは私の母が子守)から四歳まで、長男は産まれてから三歳になるまで、二男は生後九箇月まで、家でみてくれた。

 そんな子ども好きの義母も、宗矢が産まれてすぐに満百歳。「もう抱かれんわ」「落とすといけんけん」と、「しゅうちゃん」の声を掛けるだけになった。