がらがら橋日記 カブ4

 金沢を出た翌日は、新潟の柏崎でテント泊をした。その次の日は、秋田のバス停で寝た。柏崎は最初に頼みに行ったお寺で、庭にテントを張ることを了解してもらった。ぼくが持っていたテントは、かまぼこ形の簡易なもので、顔に落ちる朝露で目が覚める代物だった。できれば本堂なり住居なりで寝かせてもらいたかったのだが、たまたまテント張りの先客があったのが運の尽きだった。その連れと勘違いされたことがきっかけで、ぼくだけ畳の上で寝るなど言い出せなくなってしまった。

 秋田では、雨中のねぐら探しに難渋した。寺や駅、交番、ことごとく断られ、半ばやけ気味でトタン張りのバス停で合羽を着たままヘルメットを枕代わりに横になった。夜中、顔に懐中電灯の光が当たる感触があったが、秋田は冷たい、と勝手にふて腐れて目を開けることもしなかった。小学生くらいの女の子のぼそぼそ話す声が聞こえ、

「やめなさい。」

と叱責する母親らしき女性の声がそれにかぶさったが、足音はすぐに小さくなった。

 轟音とともに走り去るトラックが何度も何度も眠りを妨げ、寝る場所の選択を完全に間違えたことを思い知った。一日寝ないぐらいどうってことないと腹をくくってしばらくまどろみ、朝まだ暗いうちに出発した。

 さて、このところ浮かんだ妄想のうち、カブを新たに購入し齢六十にして再び旅に出ることを吟味してみた。寺社や無人の施設、停留所などで一夜を過ごすことが今も可能であろうか。

 体力をはじめ経験を除く諸能力が十八の時に比べて著しく劣っていることは仕方ない。それに十八の発する「泊めてください」と、六十のじいさんのそれとでは、受け手の想像の中身がまるで違うだろう。この年になれば、どう言葉を継ぐかは、よくよく考えておかねばなるまい。にしてもだ。体と心のリカバリーに十分気をつければできなくはない気がする。それよりも社会の側がそんな旅のあり方を許容できるのだろうかという不安の方が勝る。数打ちゃどこか泊めてくれるだろうという楽観をあのころのぼくはどこから得ていたのだったか。それは、今の若者たちとも共有できるものなのだろうか。試しにやってみるのも悪くはないだろうがあまり明るい見通しは持てそうにない。

 寛容な時代は、もう過ぎ去ってしまったのだ。人々の心は変わらず寛容かもしれないのだが、そうさせまいとするあの機械、このシステム…。それに抗うことは、とても難しい。