ニュース日記 791 心と体のつながり方

30代フリーター やあ、ジイさん。あと1年もしないうちに後期高齢者だな。調子はどうだい。

年金生活者 眠りが浅くなった。わりとよく眠れたときは体ばかりでなく、心も軽く感じられる。たとえば人を憎たらしく思うことが少なくなる。

 体と心は自律神経を介してつながっているから、体調のいいときは機嫌もいいし、その逆もまた真だ、と医学的、生理学的には説明できるだろう。私は別の言い方をしてみたい。身体は感情の土台だから、機嫌のよしあしを左右するし、その逆もある、と。

 人の生涯は母の身体から自分の身体が分離したときに始まる。それは母胎の楽園を追われることであり、身体が快感だけでなく、苦痛を知ることを意味する。そのときの母への恨みが憎しみの感情の原型をなす。一方で、授乳をはじめとした手厚い庇護を与えてくれる母への依存が愛の感情の原型となる。

 つまり人間は憎しみも愛もおのれの身体と切り離すことができない。

30代 身体が感情の土台だというのはわかる気がする。どんな仕組みになっているんだ。

年金 身体の中でも内臓系が土台となる。解剖学者の三木成夫は、「植物のからだが、太陽を心臓にして、天地をめぐる巨大な循環路の末梢毛細管に譬えられる」のに対して、「動物のからだは、その発生が物語るように、最初から宇宙の一部を切り取っておのれの体内に封じ込め」ると指摘している(『胎児の世界』)。

 この考えに従えば、母胎の宇宙と臍の緒でつながった胎児は植物的な存在ということができる。それがこの世界に生まれ落ちると同時に動物的となる。母胎の宇宙の一部を切り取り、それを内臓系としておのれの体内に封じ込めたのが乳児だ。

 生誕とは、母胎の楽園を追われ、この世界の荒れ野に放り出されることを意味する。胎児にとってそれは宇宙の崩壊であり、その衝撃が母への憎しみを生む。そして乳児として再会した母の庇護が母への愛を育てる。

 乳児の体内に封じ込められた母胎の宇宙、すなわち内臓系が不具合を起こすとき、それは生誕時の宇宙の崩壊の反復として経験される。それは母への憎しみの発生の反復でもある。

 他方で、母から受ける授乳は、体内に封じ込められた母胎の宇宙を活性化させ、胎児時代の楽園生活の部分的な反復として体験される。言い換えれば、母胎としての母への愛の反復として経験される。実はそんな愛は存在しなかったのだが、存在したかのように事後的に回想される。

30代 たしかに、怒りを言い表すのに「はらわたが煮えくり返る」とは言うが、「手足が焼ける」などとは言わない。

年金 人間が生涯の最初に感じる怒りは生誕のさいのそれだ。楽園から荒れ野に放り出されたときに覚える痛みとその理不尽さへの怒り。それが母への憎しみを生む一方、授乳が怒りを癒やし、母への愛を芽生えさせるのはさっき言ったとおりだ。

 最初の喜怒哀楽は母をめぐる感情として起動すると言っていい。やがてそれらは内臓系の各部分にそれぞれの起動の場を得る。「怒」と「楽」は腸に、「哀」と「喜」は心臓に、といった具合に。

 それに対して、内臓系の両端を起動の場としているのが性的な「快」だ。口、肛門、生殖器が両端をなしている。三木成夫の言い方をまねて言うなら、それらはヒトの体内に封じ込められた母胎の宇宙への入り口にほかならない。

 しかし、その宇宙への到達は不可能であり、入り口をその代替とするしかない。場が限定されるぶんだけ快は濃縮される。というより、胎内にいたときは快でも不快でもなかった状態が到達不能を代償として快に変わる。

30代 性の快感は感情とはだいぶ違う。

年金 三木成夫は植物と動物の違いについて次のようにも書いている。「植物のからだは、動物の腸管を引き抜いて裏返しにしたものだ。根毛は露出した腸内の絨毛となって、大気と大地にからだを開放して、完全に交流しあう。両者のあいだには生物学的な境界線はない」(『胎児の世界』)

 そうした植物の特性を備えた胎児はこの世界に生まれ落ちて乳児となったとたんに動物の特性を持つようになる。「動物の腸管を引き抜いて裏返しにしたもの」だった胎児時代の「からだ」はさらに裏返しにされる。「からだを開放して」いた「大気と大地」は「からだ」の中に取り込まれる。すなわち母胎の宇宙が「小宇宙」に縮められて乳児の「体内に封じ込め」られる。

 荒れ野に置かれた乳児は一刻も早く、母胎の楽園へ、もとの宇宙へ帰りたいと願う。だが、その宇宙は自身の生誕とともに崩壊した。帰るとしたら自分の「体内に封じ込め」られた「小宇宙」しかない。それは自分自身の体内に入ることを意味する。そんなことは不可能だ。

 代わりに「小宇宙」の入り口に到達することで我慢するしかない。自らの口を「小宇宙」の代替とするしかいない。

母胎の宇宙に帰ることは植物に帰ることだ。その宇宙の代替がおのれの体内の「小宇宙」であり、さらにその代替が自らの口だとすれば、自らをその口に生える植物としなければならない。乳児が自分の指をしゃぶるのはその動作にほかならない。