がらがら橋日記 かたづけ6

 はじめはそのあまりの量に、かたづけは一階までと決めていたが、一つ終えれば次が気になり、結局二階、物置と進んでいった。あらかた終えると今度は庭が気になってならないのだが、こればかりは自分の手というわけにいかず、業者に相談中だ。

 昭和四十年前後に開発された新興住宅地の初期に建てた家である。それまで両親は、遠縁の離れに下宿していた。一日も早く移りたかったのだろう、転居当時の家は、水回りと二部屋のみで二階の内装などまだ手つかずだった。

「なんでー、新しい家がいいがねえ、って言ってもお前は帰る、帰るって言って聞かんだった。」

 母はよくそんな思い出話をした。ずいぶん困らせたことだろうが、三歳の子にとっては、なじんだところがすべてで、新しいことなんて何の値打ちもなかった。でも、記憶に残るのは家族がちゃぶ台を囲む四畳半で、ぼくはそこが大好きだった。北向きの腰高窓の向こうには、柿の木の植わった裏庭と竹を組んだ垣根があり、その先は草むらが日を浴びて広がっていた。そこは、子どもたちの遊び場だったので、通り道にあたる竹垣は一カ所だけ下にたわんでいた。窓の下にはチロをつないでいた。開けるとシッコの臭いがして、勢いよく桟に前脚を乗せてくるのだった。

 しばらくして、チロのいたあたりに母の仕事場を増築した。ミシンと作業台、それに鏡台とラジオに囲まれて、母はものすごく働いていた。庭はぐんと狭くなり、遊び場だった草むらには家が建ったが、それでもぼくの大好きな場所だった。

 チロは、仕事場の隣に設えた物置に引っ越した。年を取って大人しくなり、物置と庭を行き来して一日過ごしていたが、一度母が外出から戻ってみると、鏡台の座布団に座り、鏡に映る自分を見ていた。チロが仕事場に上がることさえ想像できなかったので、母から聞いて驚いた。鏡台に向かって母が何をしているのか、ずっと気になっていたのだろうと二人で笑った。

 母がそれほど懸命に働かなくてもよくなったころ、仕事場と物置を二間続きの和室にした。大きな座卓を入れたが、ほとんど使う機会もなく壁みたいにして縁側に置かれ、雪見障子を塞いでいた。庭はさらに狭くなり、四畳半はすっかり暗くなった。チロはいなくなり、ぼくは就職して家を離れた。

 母が亡くなって籠城していた奥の部屋を座卓ごとかたづけた。父が亡くなって何もかもかたづけた。窓を開け放してがらんとした二間に寝転がってみる。風鈴が鳴った。気づいたのは、大好きな場所はずっとずっと前に失ったままだったのだ、ということだった。