ニュース日記 780 沈黙とコミュニケーション

30代フリーター やあ、ジイさん。経団連の調査では、企業が新卒採用でいちばん重視するのはコミュニケーション能力だそうだ。

年金生活者 モノより情報をつくる産業が主流となった現在はそうなってしまう。

 では、そのコミュニケーションとは何なのか。吉本隆明は、言葉の根と幹に当たるのは「沈黙」であり、コミュニケーションのために発せられた言葉は枝葉に過ぎないと語っている(講演「芸術言語論――沈黙から芸術まで」、2008年7月19日)。

 「沈黙」とは言葉を発することの否定だ。「沈黙」が言葉の根と幹に当たるとしたら、言葉の本質は「否定」にあると考えなければならない。その「否定」を起源にまでさかのぼると、「否定」の対象は言葉の指し示す対象となる。「猫」という言葉は現実のネコを否定するために発せられる。

30代 なぜ否定するんだ。

年金 生まれ落ちたこの世界の現実に耐えがたさを感じるからだ。現実のネコを消し去ることはできない。だから、現実のネコを「猫」という音声あるいは文字に置き換えることによって「否定」する。現実とはつながりのない音と形に置き換えることで現実を消去するのと同等に近い効果が得られる。

 この置き換えが言葉の枝葉の部分、コミュニケーションの手段としての言葉を形成する。つまり、言葉は何かを伝達するために生まれたのではなく、その何かを否定するために生まれ、その否定のためになされる置き換えが、結果として伝達の機能を持つようになった。吉本はそう言っているように聞こえる。

30代 黙っていては何も伝わらないというのが常識的な考えだろう。

年金 言葉には沈黙があるが、記号にはない。言葉はそれを発しないことも表現になるが、記号はそれを消去すれば何も表さない。記号の一種である信号機の沈黙ということを想定してみる。それは故障か停電か廃止を意味し、もはや記号ではない。記号は沈黙を抱えることができない。会話が途絶えたときの落ち着かなさは、沈黙が表現の停止ではなく、それ自体が表現だということを示す一例だ。

 言葉のはらむ沈黙の力は個々の表現でも見ることができる。「ちょっと」という言葉は「少し」とか「わずか」という意味のほかに、その反対に近い「かなり」という意味にも使われる。「それはちょっと困る」というとき「かなり困る」ということを表している。

 ただし、そのとき「少し」「わずか」という意味が完全に消し去られるわけではない。「ちょっと」と語ることは「たくさん」を否定すること、「たくさん」と語るのをやめて黙ることを意味する。その沈黙が「かなり」の意味を支える力となる。

30代 なぜそんな理屈に合わないことが起きるんだ。

年金 「かなり」の意味をストレートに言葉にするのを避けることによって、より大きなインパクトを生むことができるからだ。

 「かなり」と言うところを「ちょっと」と言うのは、「かなり」を覆い隠すことを意味する。覆い隠された「かなり」はそのぶん強度を推し量るのが難しくなる。言われた側はそれを最小限に見積もる一方で、最大限にも見積もることを強いられる。一種の「疑心暗鬼」状態に陥り、「ちょっと」が凄みを帯びて感じられるようになる。

 それは「沈黙」の凄みと言ってもいい。この場合は全面的な「沈黙」ではないが、「ちょっと」は「かなり」を覆い隠すことによって部分的な「沈黙」を形成していると言うことができる。これに対して、「かなり」をストレートに言葉にした場合は、その言葉自体によって強度は限定され、「疑心暗鬼」状態にはなりにくい。

 「ちょっと」の応用編のような言い方もある。たとえば「少し」の使い方だ。「ちょっと」と違って辞書的には「かなり」という意味はないが、文脈によっては「かなり」とか「だいぶ」という意味を帯びることがある。「少し静かにしろ」がほとんど「何もするな」という意味になることがあるように。言葉が「沈黙」に支えられていることの証左と言っていい。

30代 人間はこの世界の現実を耐えがたいと感じ、その現実を否定するために言葉を持ったとジイさんは言った。現実はそんなに耐えがたいのか。

年金 人間の胎児は他の哺乳動物にくらべて頭部が大きく、産道を通りにくいので、あまり大きくならない未熟な段階で生まれてくる。未熟なぶんだけこの世界を過酷に感じ、母胎の楽園からの追放としてそれを記憶する。生まれ落ちた世界の現実を否定し、楽園へ帰還することが生涯にわたる願望となる。

 それはかなえられることのない願望であり、その代替となるもののひとつが言葉にほかならない。母胎と言葉は普遍性を帯びている点が共通している。胎児にとって母胎は全宇宙だ。それと臍の緒を介して一体化している胎児は自らが宇宙でもある。つまりユニバーサルな、すなわち普遍的な存在ということができる。

 言葉は現実と直接つながりのない音声と文字で成り立っている。その意味で現実から切り離されている。現実とは個別的な存在である以上、それから切り離されている言葉は普遍性を帯びざるを得ない。