ニュース日記 767 大人はなにができるか

30代フリーター やあ、ジイさん。国会で野党の質問にたびたびキレた安倍晋三。NHKのニュース番組で日本学術会議の任命拒否問題の説明責任について聞かれ「説明できることとできないことがある」と怒気をあらわにした菅義偉。ふたりの総理大臣の振る舞い方を見ていると、日本社会全体が子供っぽくなっているのではないかと思えてくる。

年金生活者 私はあと1年と2か月余りで後期高齢者と呼ばれる年齢になるのに、未だに大人にはほど遠い自分を感じる。もっとも、幼いということは成長の余地があるということだから、そのぶん長生きするかもしれないと妄想しているが。

30代 大人になるとはどういうことだろう。

年金 吉本隆明は亡くなる前年の87歳のときの雑誌のインタビューで自分のことを「確固たるひとりの完成された人格、大人になっていないなと実感してしまう」と語っている(「BIG tomorrow」2011年8月号)。そのとき彼が大人の要件のひとつにあげたのが「自分で考えること」だ。

30代 彼ほど「自分で考えること」をしてきた日本人はいないと思っていたのに、本人は「大人になっていない」と言うのか。

年金 「自分で考えること」は、どんな日本の知識人にも負けないほどしてきたつもりだけれど、どんな日本人にも負けないほどはしていない。「自分で考えること」は知識を相手にする作業に限ってしてきたに過ぎず、生活の領域においてはとうてい日本の大衆には及ばない……。吉本はそう言っているように聞こえる。

 彼は次のようにも語っていた。「公にどんなことがあろうと、自分や自分の近辺の人に役立つと思えることをやる。大人とは、信念を持ってそれができる人なのかもしれません」。洗い物でも掃除でも「自分や自分の近辺の人に」負担をかけず「役立つ」ようにするにはどうしたらいいかを絶えず「自分で考え」、実行できるのが大人なのだ。そう言っていると受け取れる。

30代 自分で考えるにはどう心を働かせたらいいんだ。

年金 反射的に行動するのが乳幼児の段階なら、次の段階では他人の真似をするようになる。そのいずれも脱したときようやく自分で考えるようになる。

 反射では、五感がじかに受け取ったひとつの対象としか心は接触しない。別の対象、対象の周辺、背景、由来をとらえることはない。真似は反射と違って、とらえた対象に即座に反応することではないが、やはりひとつの対象に囚われてしまうことだ。真似るとは、対象をとらえるだけでなく、対象にとらえられること、言ってみれば夢中になることだ。

 考えることが反射や真似と違うところは、ひとつの対象ではなく、いくつもの対象をとらえることにある。複数の対象をとらえるには、それぞれの対象に距離を置く必要がある。また、ひとつの対象に即座に反応するのを控え、別の対象に接近したり、別の対象が出現するのを待ったりしなければならない。前者を俯瞰的なとらえ方と呼ぶなら、後者は迂回的なとらえ方と言うことができる。俯瞰的なとらえ方を時間化すれば迂回的なとらえ方になり、迂回的なとらえ方を空間化すれば俯瞰的なそれになる。

 吉本の言う「公にどんなことがあろうと、自分や自分の近辺の人に役立つと思えることをやる」のは反射や真似ではできない。想定される複数の役立ち方を比べ、吟味し、場合によっては事態の変化を待つ必要も出てくる。それは俯瞰的、迂回的な構えなしにはできない。

30代 子供っぽい人間が増えたとすれば、その原因はどこにあるんだろう。

年金 食べ物の乏しかった時代は、自分が食べるのを我慢して我が子に食べさせることが大人の要件のひとつとされた。モノが豊かになった現在、それに代わる大人の要件は、自分の自尊心を満たすのを我慢して、我が子の自尊心を満たしてやることではないか。腹を満たすことではなく、自尊心を満たすことが、現在を生きる人びとにとって切実な欲求になっていると思えるからだ。

 私たちの国では前世紀の終わりごろ、選択的消費が必需的消費を上回り、国民が選択的消費を一斉に控えれば、政権を倒すこともできる、と吉本隆明は指摘した。それは国家の権力の一部が個人に分散したことを意味する。分散した権力を手にした諸個人はそれに相応する処遇を求めるようになった。つまり自尊心を満たすことへの欲求を強めた。

 自尊心は他者より優位に立つことによって満たされる。自分の自尊心の満足は他者の自尊心の不満足をともなう。食べる物が限られているとき、自分の腹を満たすことが相手に空腹を強いることになるのと同様だ。

 いま人びとは、まるで乏しい食べ物を奪い合うように自尊心を奪い合っているように見える。「マウントを取る」「マウンティング」といった言葉が広まっているのは、自分の優位性を示す行為が日常茶飯事のようになされていることの証左と言っていい。

 かつて大人の要件とされた食欲のコントロールは、人びとの間で広く共有された倫理だった。しかし、現在の大人の要件かもしれない自尊心のコントロールは、そうした倫理にはまだなり得ていない。