がらがら橋日記 秋の一日

 時々クラスの手伝いに入ることがある。その日はたまたま中学年の図工で、物語の絵を描いていた。ぼくの役目は指導ではなく、身も蓋もない言い方をすれば監視、である。みんなやるべきことをやっていたら早々に抜け出して、通常業務に戻ろうと目論んでいたが、一人の男の子が、机から離れて出歩いている。身を持て余して廊下に仰向けになり、匍匐前進のような格好をしている。ふん、どうやらお役目があるらしい。

「どうした?。」

「絵の具忘れました。」

 寝たまま答えるな、と怒鳴ってもよかったが、それは後回しにして、その子の机の上と表情を交互に見、どうしたものかと考えた。たぶん忘れたというのは取り繕ったに過ぎない。

 学習道具がそろわぬ子は、たいていどんな時間も何かを欠いている。叱って直るようなら背中で雑巾がけをするような態度はとらない。欠くことから抜け出せない苛立ちをどこかにぶつけていないと自分を保てぬのだろう。できるものなら絵を描きたいが、絵の具を用意できなかったのは他ならぬ自分である。誰を責めるわけにもいかない。このままほっといてイライラが高じれば、誰かを引きずり込まずにはいられなくなろう。そしてまたトラブル発生。

 借りる絵の具もないとなれば、と思い巡らしていたら、色画用紙のサンプルがあったのを思い出した。担任に聞くとちぎり絵になっても構わないという。

「これを君にやろう。切って貼ったらどうだ。ほかの誰もやっていない絵ができるぞ。」

 興味を持ったらしい。喜々として作り始めた。これで無用なトラブルを回避できた。後で見に行ったら、色とりどりの葉を付けた大木が作品の真ん中に鎮座していた。これなら引けを取らないだろう。

 その日、帰宅すると絵が届いていた。本物を飾りたいけど、購入や収集する気はまったくないぼくのような人間には、レンタルというありがたいシステムがある。音楽も映画もサブスクリプション全盛だが、絵画の世界にもあることを最近になって知った。

 作品に寄せた作者の言葉によれば、世間的な成功を目指して行き詰まり、しばらく描けない時期があったが、豪雨災害によって近親者を亡くし、鎮魂の思いで描いた、とある。ただカタログで見て選んだ抽象画だ。そのエピソードは届いてから知ったに過ぎない。

 描こうにも描けない煩悶を経た二枚の絵に出会う日。秋なんだろうな、やっぱり。こういう巡り合わせというのは。