がらがら橋日記 酷暑

 猛暑が続く。学校は、近年徐々に二学期の始業が早くなっているが、それに加えてコロナのせいで、例年より一週間も早く始まった。収まる気配を見せない酷暑が、出鼻に噛みついてきたかっこうだ。
 盆を過ぎたらしのぎやすくなる、というのが幼い頃から染みついた感覚なのだが、今の子どもたちは外遊びも体育も命の危険と隣り合わせで制限されるのが夏、とすり込まれていくのかもしれない。
 日の出は遅くなっているので、この頃は走り始めるのは、まだ暗いうちである。一日のうちでもっとも気温が下がっているはずなのだが、熱帯夜のずっしり重たい空気に十分に蒸されたアスファルトの臭いが混ざって、走る前から体が汗ばんでくる。体内の水分と走る気力がじわじわと失われていく。
 いつも見かける散歩やジョギングの老人たちの数が少ない。熱中症を恐れて自制したのだろう。それが正解なのだが、ひとたび止めてしまうと、再開する気になるかどうか疑わしいので、運動不足による神経痛やだらしない腹囲を想起して、困難から逃れようとする心を押さえつけにかかる。
 走り始めるとすぐにわかるのだが、まったくペースが乗らない。理由は明らかである。体温に近い高温高湿度の中で走ると、体温を下げるために汗をかこうとする。体内の水分をせっせと放出するために心臓も拍動の数を増やす。日頃と同じ心拍数で走ると自然とペースは落ちる。いつものペースで走ろうとすると、心臓はオーバーペースで応じざるを得ない。
 と、どこかで読んだ理屈をもってして納得にかかるのだが、実際のところは理屈などどうだっていい。まったく走る喜びが感じられないのだ。これがさらっとした早朝であったり、きっぱりとした冬だったりすると、途中で足が勝手に出ていくような感覚がところどころにあるのだが、猛暑の道中は、ただただ苦痛でしかない。それなら仕方ない、ゆっくり走ればよい、と思うべきだが、ペースを落とすと通常の自分に劣後しているようでどうもおもしろくない。つまらぬことにこだわってしまうのだ。そのうち、内臓や足にちょっとした違和を覚え、予定を切り上げて終わる。
 ここで無理をしてはいけないというのを去年覚えた。予定通りを尊重したために、軽度の熱中症になってしまったのだ。初めは手先、そして口にしびれを覚え、何だろうかと不審に思いながら走っているうちに、体がガクンと重くなった。どうにか家にたどり着いて水分や甘味を補給して事なきを得たものの、危なかった。低血糖の恐ろしさは、一度山でも経験した。いずれも慣れてきた、いけいけの頃である。