がらがら橋日記 湯抱温泉
まったくどこにも行かない夏も耐えがたい、という呼びかけに応じて、山仲間と三瓶山を訪ねた。この二十年、毎年各地の山へ赴き、近年は東北にまで足を伸ばすようになったのだが、今年はコロナに行く手を阻まれた。
もっとも一日歩き続けてくたくたになった体を温泉に浸けて一気に解放し、酒と旅館飯を堪能することをもって成就する私たちの旅である。。目的を絞り込んでいくと山さえ消えてしまいかねないので、近場になったところで喜びが減じることはない。
山を歩いていても、行き帰りの車中でも、どこそこのあれがうまかったなどの話を飽きもせず繰り返すのが常だが、味覚や嗅覚の記憶とともに登った山の空気や岩肌、空がよみがえってくるので、だれもが話とは別に頭の中ではそれを味わっている。話の上で背景に甘んじていても、やっぱり主役は山である。
三瓶山を縦走して大汗をかき、くたびれた体を持って行った先は、湯抱温泉。渓流にかかる橋のまわりに数軒の旅館が並ぶが、今も営業を続けているのは、一軒だけである。
「昔は、宿泊客がバスで来られていました。」
女将さんの話だと、連日の宴会で近所にはコンパニオンを生業とする女性たちもいて往事は賑わったのだそうだ。きっとその頃は女将もバシッと和服で決めて切り盛りしていたのだろうが、今はTシャツに前掛け、化粧気もまったくない。たぶん同世代。
「今日のお泊まりは皆さんだけですから。」
老舗旅館を貸し切りにしていると思うと豪儀だが、維持していく苦労も並大抵ではなかろうに加えてコロナ、と気の毒が先に立つ。
夕食は、私たちだけなので、広間の中央を贅沢に使って並べられた心づくしを味わう。宿の売りである山鯨、猪肉がうまかった。夏の盛りに熱燗が飲みたくなったのは、肉の甘みと「猩猩」と大書した掛け軸のせいだが、猩猩に見られている割には、旅館に儲けてもらうほどには酒も進まず、早々に横になった。
翌朝、川のせせらぎと蜩の鳴き声を聞きながら散歩する。誰一人会わない。旅館の隣は、かつては土産物店、今は蔦の這った空き家だった。
薪で焚いた朝湯と朝食を存分に味わって、女将さんと息子さんに見送られて旅館を後にする。あと百年こんな温泉旅館が続けていけるためには、人の心の何を変えればよいのだろう。そんなことを考えながら足を掻く。散歩の際にブヨに食われた。この時期、きれいな水の湧くところでは警戒しないといけないこと、すっかり忘れてしまっていた。