ニュース日記 747 コロナ恐怖
30代フリーター やあ、ジイさん。東京の新型コロナウイルスの新規感染者が16日に286人と過去最多を更新した。
年金生活者 ウイルスの性質が少しずつわかり、未知ゆえの恐怖が薄らぐにつれ、マスメディアは「もっと恐れなくてはダメだ」といわんばかりの報道を続けている。
30代 怖いことは確かだ。
年金 流行の初めのころ、国民ひとりひとりが持った個人的なの感情としての恐怖は、もうひとつの恐怖、共同的な恐怖と呼ぶべき恐怖を派生させた。「正しく恐れる」という啓蒙的な言葉はそれを象徴している。恐怖は個人的な感情であり、その大小も有りようも人によって異なるはずなのに、恐れ方に共通の枠をはめようとするのがこの言葉だ。
吉本隆明は『共同幻想論』の中の「禁制論」で「恐怖の共同性」ということを言っている。柳田国男の『遠野物語』に描かれた山人に対する恐怖の体験のエピソードは、うわさ話やまた聞きによって虚構性を増し、それにつれて恐怖が「〈共同性〉の度合を獲得してゆく」と。
新型コロナをめぐってはネット上にうわさやまた聞きの情報が大量に流れ、虚構(デマ)が拡散することによって恐怖が共同化していった。そればかりではない。何もしなければ全国で42万人がコロナ感染で死ぬという「8割おじさん」のシミュレーションも恐怖の共同性の形成にあずかった虚構のひとつと考えることができる。それは計算上は成り立つけれど、前提にした数値(再生産数)が日本の実態とかけ離れたものだった。
30代 素人が専門家の難しい計算にいちゃもんをつけて大丈夫かよ。
年金 医療界や行政は恐怖の共同性を梃子にして個人をコントロールし、コロナ対策を進めてきた。
個人の感情としての恐怖はさっき言ったとおり人によって大きさも態様も違う。当然ひとりひとりのコロナへの対処の仕方も異なってくる。ウイルスはそうした個々人による防御を突破して広がるから、社会全体としての対処が必要となる。その主要な手段が隔離や行動制限だ。
それに応じるかどうか、応じるとしてもどの程度かは、個人の恐怖の度合いや有りように左右される。それをそのままにしておくと社会全体としての対処が困難になる。そこで利用されるのが共同的な恐怖だ。それは大きさや態様が一律化された恐怖であり、これを利用すれば対策の一律化が可能になる。
フーコーは、近代以前の権力が、逆らう者を殺す権力だったのに対し、近代の権力は生かして従わせる権力になったとして、これを生権力と名づけた。生権力は一方で、個人の身体を訓練して規律に従わせる。その場所が軍隊や学校、工場だ。他方で、個人でなく住民全体の健康状態や人口動態を統計・調査などを通じてコントロールする。
コロナ対策に臨んだ医療界や行政もそうした近代的な生権力として、個人の行動を制限し、感染者の数をコントロールしようとした。だが、そのために利用したコロナへの共同的な恐怖は、『共同幻想論』に従えば近代的なものではない。
30代 枝野幸男が「東京を中心に緊急事態宣言を出すべき客観的な状況だ」と記者団に語ったと報じられていた。
年金 都内の新型コロナの新規感染者数が緊急事態宣中のピーク時を上回っているので、そう言ったのだろう。だが、現在の重症者は1けた台で、100人超だった最多時にくらべるとはるかに少なく、医療も逼迫していない。それなのに、枝野が緊急事態宣言を言い出したのは、安倍政権には危機感が足りないと印象づけたかったからだと推察される。
政権を批判するには、楽観論を唱えても効果がない。悲観的な見通しを強調し、政権はそれに手をこまねいていると批判する必要がある。人は安堵よりも恐怖を誘う情報に説得されやすい。安堵していいなら、対処の必要はないと考えるが、恐ろしいことが起きるかもしれないと言われると、何とかしなければと不安に駆られる。
30代 災害や事故などで危険が迫っても「大丈夫だろう」と楽観視してしまう「正常性バイアス」にそれは反するんじゃないか。
年金 「大丈夫」にしがみつこうとするのは、そのときまで「正常」という共通の了解によって形成されていた共同性から逸脱することへの恐れがあるからだ。
政治家はそうした恐怖の威力を利用する。危機感をあおることで自らのへの国民の支持を取りつけようとする。安倍政権が全国一斉の休校を要請したり、人どうしの接触の8割削減を呼びかけたりしたのは、コロナ対策だけでなく、自らの求心力を高めようとする意図があったからと推察できる。
だが、それによる経済への打撃で国民の不満が蓄積され、逆に求心力が低下してきたため、今は悲観論から楽観論への切り替えをはかっている。
いま人びとの恐怖の対象はコロナにとどまらず、自粛にともなう生活の危機におよんでいる。それも共同的なの恐怖を形成し、コロナ同様そこからの逸脱への恐怖を生み出した。緊急事態宣言を主張する枝野がコロナへの共同の恐怖に依拠し、その必要はないという政府が生活の危機への共同の恐怖に依拠している構図が見える。